昨日~前世紀末

1987年 ベルリンの壁崩まであと2年

 就職を控えた年の冬、西ヨーロッパ(このころまだ世界はアメリカをリーダーとする西側資本主義圏とソビエト連邦(ソ連)が支配する東側共産圏に分かれて厳しく対立していて、ヨーロッパも東西に分断されていた。)に向けて旅立った。暇つぶしにドイツ語会話を習いに行った先の講師が西ベルリン出身の西ドイツ人(ドイツも東西に分かれて2か国存在した。)で、「せっかくドイツ語を習ったのだから是非ドイツに行け。ついでにベルリンに行って壁を越えて共産圏の東側に行ってみろ。」と勧められた。

 ベルリンはドイツ敗戦後米英仏が管理する西ベルリンとソ連が管理する東ベルリンに分かれ、その境界を壁が分かち、東西ドイツ成立後も東側共産圏から西側の自由な世界への逃亡を阻止していた。東ドイツは社会主義経済の行き詰まりから外貨が常に不足していたため、少しでも外貨を稼ごうと、外国人観光客に限り、西ドイツマルク(当時世界最強の通貨の一つ)と東ドイツマルク(西側世界では紙屑同然)を5マルクずつ交換する(紙屑を高い貨幣で買う)ことを条件に東ベルリンへの日帰り越境を許可していた。

 フランフルトから北のハンブルグに寄り、夜行列車でベルリンを目指した。ベルリンは東ドイツの領域内にあり、西ベルリンは共産圏に取り囲まれた西側の飛び地だったので、列車は途中で東西ドイツの国境を深夜に超える。突然東ドイツ国境警備隊が自動小銃を抱えて列車に乗り込んできて「パスコントロール!(国境検問)」と叫んだので、寝ていたのが驚いて飛び起きた。パスポートと切符(私は西ヨーロッパどこでも乗り放題のユーレイルパスを所持していたが、当然東側通過用に別切符を購入していた。)をチェック。初めて見る本物の軍服の兵隊さんと銃にはぎょっとさせられた。翌朝西ベルリンに入る際には何のチェックもなく、西ベルリン駅に降り立った。

 駅(現在はベルリン中央駅)のインフォメーションで安宿(と言っても大都市なので高め)を紹介してもらいとにかくバックパックを降ろして、眠くて疲れてるけど「歩け!」と自分に呼び掛けて真冬のベルリンの街へ。とりあえず普通の?観光を、ということでシャルロッテンブルク宮殿へ。地下鉄でシャルロッテンブルク宮殿駅まで行き徒歩25分。これが長い、と言うか寒い。マイナス10度以下の凍った通りをいくら歩いても暖まらない。逆に体がどんどん冷えていく。冷凍日本ジになる寸前に何とか行き着いた宮殿は、バロック様式でとっても広い庭園で有名だけど、真冬じゃあね。内部は夢のように豪華絢爛。でも絵画にも陶磁器にも興味がないので猫に小判。西ヨーロッパの定番「城、博物館、教会」は素晴らしいけど、この後もそればっかり続くと飽きてくる(ベルリンは一か月の旅程の中でまだ出だし。)。

 気を取り直して「壁」観光で有名なの「(ベルリンの)壁博物館」へ。東から命がけで脱出した際の道具(荷物になって脱出成功した人が入ったスーツケースなどなど)や、東ドイツ兵の銃撃で阻まれた悲劇の写真などが展示されている。その2階ベランダから壁が望める。たまたま一緒になったアメリカ人の団体がみんなで「壁を壊せ!自由を返せ!」と叫んでる。この人たちとは入館の際に一緒になって(紛れて)、館のスタッフが私もカウントしてしまい、気が付いたらタダで入ってしまっていた。英語・ドイツ語で説明するのもおっくうで「ただ乗り(ただ入り?)」させてもらうことにした。

 さて本番はここから。目の前の壁に開いた切れ目?いやいや小さなゲート「チェックポイントチャーリー」(壁構築直後の時期に東西スパイの交換場所だった)を目指さなきゃ。ここが唯一西側の人間(西ドイツ人は除く)が東側に抜けられる通り道だった。博物館を一人で出て、前の通りを越え西側の検問へ。西ドイツ側国境警備隊員に「ここを超えると我々(西側)の身体の保護が及ばなくなるが、いいか?」と聞かれちょぴり背筋が冷たくなったけど、「ヤー、インオルトゥヌング(はい、了解です)」と答えると、「このまま壁の中の通路をしばらく行け。鉄の扉が出てくるからその手前に東側の警備隊のチェックポイントがある。そこで西側の5マルクと東側の紙幣を交換すれば扉を開けてくれる。気を付けて楽しんで来い。」と教えてくれた。

 暗い洞窟に入っていくようで不安になってきたころ、鉄の扉と映画の切符売り場のような小さな窓口が見えた。そこで5マルクを交換し非常ベルのような音(これが鳴っている間だけ重い扉が動く。)を聞きながら扉を押して出た。冷戦の鉄のカーテンの向こう側、東ドイツだ。

 東ベルリンで観光スポットはブランデンブルグ門ぐらいしかない。戦前は首都ベルリンの象徴的凱旋門だったけど、壁構築後は東側に取り込まれて越境しないと見れない。近づくとさすがの迫力。巨大な上に古代ギリシア様式の彫刻が全体を覆い中央には有名な四頭立ての馬車に載ったミネルバ像がそびえている。などとガイドブック通りの関心をしていたら、かなたに軍服の一団が見える。警備の東独兵でもないし、銃をもってない。軍服がやぼったいなとようく見るとテレビでよく見る「ソ連兵」と思われた。どうやら駐留ソ連軍兵士が門の観光に来てるような!こいつはシャッターチャンス(東側から凱旋門を狙うとその先が壁。ソ連兵が入れば「冷戦の向こう側」を切り取ったことになる。)だ。でも、ここは共産圏の真っただ中で相手は米軍と対峙するソ連軍。危ないかな?との思いがよぎりった瞬間、先頭の兵士(将校?)が「ダメだダメだ」という風に両手を振りながら接近してきた。逃げると余計にややこしそうだったので意を決して「写真撮っちゃだめか?」と英語で聞いたのだが首を振るばかりで通じない。逆にどうもフランス語らしきもので話し出したので思わずドイツ語で「フランス語は分からない」と答えたら「ドイツ語なら分かる」と返してきたのでもう一度たずねたら、「自分(将校)はダメだが残りの兵隊は構わない」のだそう。礼を言ってカメラを構えると西側では「恐怖のソ連軍」兵士がみんなカメラ目線で恥ずかしそうにこっちを見た。なんだか気の抜けた構図だけどしょうがない。数枚撮って手を振って礼をしたらおずおずと振り返してきた。まあ面白かった、と思ったらやっぱり緊張してたのか急に腹がへってきた。

壁に沿って歩きながらレストランを探しながら落ち着いて街を眺めてみると、しみじみと超近代的な西ベルリン(西ドイツ)との格差に驚かされる。通りをバリバリと音高く走る車は、小型の箱型で真っ黒な排気を吐いている。これが東ドイツの国民車「トラバント」だが、日本の軽自動車を古くぼろくしたようなしろもので、西ドイツが誇るBMWやメルセデス・ベンツとは同じ「車両」とは思えないほどの違いがある。だが、東ドイツはソ連圏の東ヨーロッパでは最も進んだ「工業国」と言うから共産圏の経済発展の停滞が容易に想像できる。

なんて、固いことを考えてると長い行列が見えてきた。東側の名物のこの行列、何か買おうとすると品物不足で平気で2時間待ちがあると聞いていた。嫌な予感が当たってレストランが向こうの方に見えた。「飯食うのに2時間はきついなあ!」と思いながら、でも並ばないと順番も来ようがないので並ぶこと十数分、レストランの制服らしきものを着たおじさんがやって来て「一人か?」と聞いてきた。そうだと答えると、「来い」というのでついて行くと玄関を指して「入れ!」と言う。「いいのか、並んでるのに」と列を振り向いて聞いたが、「いいから入れ!」と言って、中年の夫婦らしいカップルが座る4人席に案内された。

最初は外国人だから特別扱いかと思ったがそうではなく、4人掛けのテーブルなので相席できる客を探していただけのようだった。日曜日なので娯楽が少ない中、外食を楽しもうと家族連れやグループがおおぜい並んでいたので一人旅の人間がいてちょうど良かったらしい。

さて、ドイツ人ご夫婦と一緒にお食事。なんかどちらも気づまりで、固い笑顔で見つめあってしまった。まあ無理もない、めずらしい外国人それもアジア人らしき珍物?と同席してしまったのだから。正に棒を飲んだような硬い表情で固まってしまっている。まじまじと見つめてはいけない、だけど不思議なものは見たい、言葉は通じないだろうけど下手なことを話すと秘密警察に引っ張られそうで怖い。などなどが、顔に書いてある。

私も気まずいので、片言のドイツ語で挨拶し、さらに「観光に来たのだけれど、この街の中心部はどこにありますか?」と聞いてみた。おー話すのか?ってな顔で驚いてから二人で小声で話し合い出てきた答えが「このベルリンの中心街は壁の西側にある。」とのご回答。そうか、東西に壁で隔てられていても、今も「一つの街ベルリン」の市民としての意識があるんだな、と思い彼らの本音(ベルリンは一つ)と建て前(「東ドイツの首都(東)ベルリン)のギャップとその切なさが伝わってきたような気がした。

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