・出発まで
関西の地方自治体に勤務することとなった私は、研修所の新人研修の自己紹介で、就職直前に行った初めての海外旅行のことを話したせいもあり、研修所の幹部から役所から派遣される海外留学の制度があるので、資格が取れたら応募してみないかと勧誘された。
ただその資格が、「在職3年以上かつ30歳以下」だったため、27歳で就職した私には最初で最後の1回きりのチャンスであることが分かった。そうなると不思議なもので、なんとしてもものにしたくなった。この機会をとり逃すと永久に後悔するような重大なことに思えてきたのだ。
ただ、右も左も分からない新人ゆえに当初は留学どころではなく、仕事に悪戦苦闘する毎日だった。そして少し回りの見えてきた2年目になって、留学試験の準備を始めた。とはいっても、海外経験といえば自己紹介でしゃべった海外旅行1回きりだったし、英会話も全く駄目だったので、何から始めればよいのかも分からなかった。そこでとりあえず、留学用英語検定試験のTOEFL受検のためのコースに通うことにした。アメリカの大学・大学院がこの試験の点数を要求しており、また一定の点数をとらないと役所も留学試験を受けさせてくれない
大人の塾通いのようで苦痛でもあり、留学志望者が取るような高得点を取る自信もなく不安でもあった。だが初めて受けたTOEFLでそこそこの点数が出たので、後に希望をつないで我慢して塾通いすることにした。
我慢の甲斐あって、数か月後には役所の基準と中堅どころの大学院の要求点数をクリアすることが出来た。しばらくして役所の留学試験にも合格できた。
だがここからが大変だった。ビジネススクール用の英数試験GMATは年2回しかなく、失敗すると挽回が難しい。その上、当たり前だが大学院へのアプライは全て自分でやらねばならない。(大金を出せばそのころでもアメリカ留学申請事務代行会社に頼めたが、もちろんそんなお金はない。)何とか10校ほどにアプライし、不安に苛まれながら待つこと数ヶ月、ようやく数校から入学許可が来た。
・大阪空港~ロスアンゼルス空港
平成2年6月某日、私は大阪国際空港を飛び立ち、アメリカのロスアンゼルスに向かっていた。機が離陸したとたんに「しまった。こんな留学希望するんじゃなかった。」といきなり後悔した。2週間じゃなくて、2年間知り合いもなく、英語しか通じない場所で暮らすのだという孤独感(と言うより恐怖感)にさいなまれることとなった。
機は強い偏西風にはばまれ、通常の12時間を2時間遅れでロスのトム・ブラッドレイ国際空港に到着した。当面2ヶ月の行き先は、スポーツ選手の高地トレーニングで有名なコロラド州デンバー郊外のボールダー市だが、遅れにより国内線への乗り継ぎカウンターに到着して間もなく、デンバー行きの国内線は、出発してしまった。デンバーまでスルーでチェックインしていたので、荷物だけ飛び立ってしまったのではないかと焦りまくった私は、カウンタースタッフに猛烈な勢いで(ただし、しどろもどろの訳の分からない英語もどきで)食ってかかった。スタッフは慣れたもので、「落ち着け、落ち着け、荷物はお前が乗り込まない限り積み込まれない。」と私をなだめ、空きのある一番早い便に予約を入れてくれた。
それでもその後続便が出発するまでには2時間以上あったので、私は外界との仕切りもないロス空港の国内線出発ロビーで、危険なアメリカ人(当時はアメリカ人の殆どが強盗に思えていた。)に怯えながら時間をつぶす羽目になった。
一度ヨーロッパをバックパッカー旅行していたが、アメリカはまるっきり初めてで、ヨーロッパ人はスリ、万引きはするが強盗はせず、危険も少ないが、アメリカ人は銃で撃ってから金、物を盗る極めて粗暴な国民と思い込んでいた。
しかし、すぐに国内線に乗れれば機内食が出たはずだが、2時間待ちとなるとどうしても空腹で耐えられなくなって来た。そうは言ってもつたない英語で、強盗に怯えながらではゆっくりとした食事が取れる訳もなく、ハンバーガーショップで、巨大(日本の標準に比べて)なハンバーガーを1つ注文した。自分でケチャップや他の調味料で味付けをすることなど思いもよらず、干からびて味のない感じのするハンバーガーを、コカコーラで無理やり流し込んだ。
後で分かったことだが、すぐそばに日本食のファーストフード店があり、そばでもうどんでも、丼ものでも何でも食べられたのだった。
- ロス空港~デンバー空港
ロスからデンバーは、アメリカの国内線で、当たり前だが見渡す限りアメリカ人(と思われる)ばかりで、心細さはいや増しになってくる。勤め先の留学制度でアメリカ行きが決まった時に、英語が不十分だろうからと、アメリカの大学での2ヶ月間の英語集中コースの受講が認められたのだが、西海岸や東海岸は日本人だらけで英語の練習にもならないだろうから、真ん中あたりがいいだろうと簡単に考えコロラド州立大学に決めたのだが、こんなことならロスかサンフランシスコで楽しく過ごすんだったと、またまた後悔するはめとなった。
- デンバー空港~ボールダー
2時間遅れでデンバー空港に到着した私は、コロラド州立大学英語学級入学案内に記載の循環バスに乗り込み、ボールダーに向かった。時間通りに着いていれば、英語教室の事務所の担当者に大学の寮に案内してもらえるはずなのだが、ボールダー到着が5時を回りそうなので、大学近辺で一泊する必要があるかもしれない。
乗ったとたんに運転手が、似たような名前のホテル名を並べ立て、降りる人間を確かめだしたので、入学案内にあった大学のすぐそばのホテルとおぼしきところで手を挙げたが自信がなかった。運転手に一言確認すれば済むはずだが、動揺してそれも出来ず、自分の泊まるホテルを見逃すまいと、窓の外を睨んであぶら汗を掻いていた。
何とかボールダーにたどり着いたものの、ロスでの遅れがたたって英語教室の事務所はクローズドしており、やはりホテル泊まりとなった。アメリカ到着第1泊の夜は、車もないので、夕食抜きかと諦めかけたが、歩いてたどり着けそうなところにタコベル(アメリカ最大のメキシカンタコスチェーン店)を見つけ、空腹と不安の同居だけは免れることが出来た。
- コロラド州立大学ボールダー校(英語教室)
翌日英語教室の担当者に迎えに来てもらい、コロラド州立大学の学生寮に入寮した。大学本体が夏休み中で学生がおらずとりあえず希望通り1人部屋ということになったが、夏季集中コースが始まったらもう1人同室となる予定と通告された。キャンパスの説明も受けたが、何しろ広大で、車か少なくとも自転車がないと教室間の移動も不可能に思われた。
翌日英語教室入校の手続きを取り、クラス分けの試験を受けた。留学のためのTOEFLとそっくりの試験で、何のことはない、5つあるクラスの1番上のクラスに入ることになった。英会話が全くだめで、この2ヶ月でなんとか大学院の授業が受けられるようにならなければいけない私には、これは困ったことになった。この教室で必要な水準まで引き上げてもらえるのだろうか、不安がよぎった。さらに驚いたことに、20人程度のクラスの内、15,6人が日本人で、共通語は日本語になってしまった。いいかげんなもので、飛行機の中で早すぎるホームシックに悩まされた当人が、日本人が多すぎると文句を言っているのだからしょうがない。
広いキャンパスを紹介してもらうツアー(もちろん歩き)や、ボールダーの市街地を一巡りするツアーもあり、私は中心街パールストリートで、とりあえず自転車を買うことにした。
5つ有る寮の一つに食堂があり、事前に申し込んでおいた私は、ここで朝昼夜3食を取る事ができた。夏のコロラドは緯度とサマータイムの関係で夜8時を過ぎても非常に明るく、夕食後のキャンパス散歩は、間近に迫るロッキー山脈のしっぽの部分に夕焼けが映える、心あらわれるようなひと時であった。
授業は朝9時から夕方5時まで、ヒアリング、リーディング、作文、小論文作成などのクラスを回ることになった。大学生を中心にして(日本の大学に入れなくて、アメリカの大学を目指す人も含めて)、20代前半中心の若いクラスメートが多かったが、私と同じように職場からの派遣留学の準備で来ているサラリーマンや、日本の大学の研究者の卵などもいた。期待していた会話が飛び交う授業ではなく、日本と同じに先生が質問し、生徒をあてる内容で、話も文学的なものが多く(文学部や、言語学部の院生、リタイアした教師が担当だったのも影響してか)、ビジネススクールで、経済、経営、国際政治を専攻しようとしている私には、英語の練習にも、参考にもなりそうになかった。
そして恐れていた(期待していた)とおりに、日本人の学生たちと、街に出たり遠出したりして楽しむ日々が続き、私の英語力は悲しいまでに停滞したままであった。カンバセーションパートナーと言って、アメリカ人を紹介してもらい、会話をする機会を与えられたが、1対1なら何とかなっても、集団での授業についていくための訓練にはなりにくかった。
そうこうしている内に、大学本体の夏季集中コースが始まることとなり、私の部屋にもアラスカからロースクールに入り弁護士資格を目指す39歳のルームメートがやって来た。彼はなんと既に医師の免許を持っており、政治家の娘で19歳のフィアンセとの結婚を彼女の両親に許可してもらうために、アメリカで政治家では一般的な法曹資格を取りに夏休みを利用してやって来たのだった。
彼の方でも日本にはかなり興味があったので、夜寝る前や、休みの日に出掛けたりして会話をする機会があったが、なにしろ私の英語力が低いため、双方向の情報交換になりにくかった。それでも私たちは気が合った方で、夏休みの終わりには自家用プロペラ飛行機で来ているので、それに乗ってアラスカに来ないかと言ってくれた。
楽しい2ヶ月はあっという間に過ぎ、1週間ほどのブレイクを挟んで、大学院入学のためにテキサスに向かう予定が目前に迫ってきた。元々このブレイクを利用してニューヨーク、ワシントンDCを見てみたかった私は、アラスカに行くかどうか迷ったが、結局当初の予定通りに東部に行ってみることにした。
- ニューヨーク、ワシントンDC
東部には、英語教室で他のクラスにいて仲良くなった日本人(後に結婚して妻)と行くことにして、ニューヨークまでは飛行機、両都市間は鉄道で移動することにした。だが事前の準備を何もしていなかったために、危険な旅となってしまった。
ニューヨークのJFK空港に到着した私たちは、グレイハウンドのバスで都心に入ったが、バスディーポがあるのは相当危ない場所だったようで、大きな荷物をぶら下げて歩いているところをパトロールの警官に呼び止められ、そのまま派出所?(分署というにはあまりに小さく、むしろ日本の交番に近いものに思われた。)まで連行され、「ここはあんたたちのような連中(とっぽい外国人客)を餌食にして生活しているやつ等ばかりのところだ。無事な内にとっとと地区外に出て行け。脅しているんじゃないぞ。俺の目を見ろ、うそを言っているようにみえるか?」とそれこそ脅かされたのだが、なにせどこからどこまでがその「地区」で、どっちにどれくらい行けば出られるのか見当もつかなかった。それを尋ねると、警官はうんざりしたような顔で、地図を見せて、「ここから北に10ブロックほど行けば安全な地区に入るから早く行け。」と追い出されてしまった。
こちらは回りの人間全てが凶悪犯人のように思えて、とてもタクシーを呼び止める勇気も出ず、ひたすら北に向かって歩く羽目となった。その内雨も降り出し、濡れねずみで歩くこと約1時間、ようやく警官の言ったラインを超えたところに、マリオットホテルがあったので、ふらふらになりながら飛び込んだ。予約もなく、みすぼらしい格好の外国人にもフロントの係員は動ずることなく(日本人はみすぼらしい服装でも金を持っているらしく、おかげで我々も怪しまれずに済んだらしい。)、パーティー会場の隣でうるさくてもよければ、広くて安い部屋を提供できると言われ、その部屋に泊まることにした。
翌日は、「地球の歩き方(別名「地球の迷い方」)」で下調べをして、ニューヨークの中心部の安ホテル(それでも1泊100ドル。ニューヨークは高い!)に部屋を取り、5番街、セントラルパーク、自然史博物館等、そのまた翌日はスタテン島行きのフェリー(自由の女神見物)、国連本部、エンパイアステートビル、ウォールストリート、貿易センタービルなどを観光して回った。
貿易センタービルでは、以前テロのあった地下で警官の一団が全力で駆け抜けるのに遭遇した。その後、このビルでは爆破テロがあり、ついには9・11の悲しい運命が待ち受けていた。
ニューヨークに2泊した後に、列車(AMTRACK)でワシントンDCに向かった。アメリカは初期に大陸横断鉄道などで鉄道の先進国入りを果たしたのだが、世界最初で最大のモータリゼーションが全土を覆うや、鉄道は顧みられなくなり、今では西海岸~東海岸のランドブリッジ(海上コンテナの陸上輸送)など、貨物が中心となっており、旅客は、ニューヨーク~ワシントンDCのシャトル便が生き残っている程度となっている。それも非常な赤字続きで、連邦政府の補助金を食いつぶしていることで悪名が高く、技術革新も進まず、日本の旧式の在来線程度のスピードしか出ない。これで3時間もかけてようやくDCに到着した我々は、前日ニューヨークから予約した駅の近くの小ホテルに投宿した。ここは古いがこじんまりとして落ち着いたホテルで、曲がりなりにもポーターのサービスの提供もあり、荷物も大きかったため非常に助かった。
DCでは、やはりおのぼりさんの定番であるホワイトハウス、国会議事堂をはじめとして、リンカーンメモリアル(リンカーン大統領の業績を記念して立てられた廟堂)や連邦政府の官庁街、古い町並みのジョウージタウンなどを観光して回った。このとき、ケネディーに異常な関心を持つ私としては、地図にあったケネディーメモリアルにも是非行きたいと探したが、高速道路沿いにあり、車を持たない私たちには、その高速道路を横断する必要があった。連れは危険なのであきらめようと諌めたが、私は意地になり聞かず、嫌がる彼女の手を引き、強引にハイウェイを横切った。そんなにして、自分だけでなく、他人(当時)の命まで危険にさらして命からがら到達したケネディーメモリアルは、実は単なる美術館だったことが分かり、がっかりするやら、あきれ、怒られるやら、またもリサーチ不足のため散々なこととなってしまった。
ただ、映画の1シーンにもあった、リンカーンメモリアルの階段に腰掛け、広場越しに遠く国会議事堂を望んだ景色はなんともセンチメンタルで忘れがたい記憶となっている。また、9・11以後の今では考えられないことだが、国会議事堂は議会閉会中のためか、殆ど何の警備もなく、自由に出入りでき、驚いたものだ。ただ残念だったのは、ホワイトハウスには入れたものの、修復中で、青シートに覆われており、ブルーハウスとでも言うような外見で、写真、テレビでおなじみのシーンには出会えなかった。
そんなこんなで、DCの1泊2日の旅を終え、またまたAMTRACKに揺られて(ほんとに揺れるぼろ電車だ。)ニューヨークに舞い戻った。
戻ったニューヨークでは、今度は日系のホテルに泊まることとし、セントラルパークを散策したりで、のんびりと残りの休日を過ごすこととした。
- ダラス・フォートワース空港
ニューヨーク、DCの休日を終え、一旦デンバーに戻った私は、デンバーのデイズ・インに1泊した後、彼女をボールダーに返し(彼女はさらに英語学級に1年弱留まる予定だった。)、そのままテキサス州のダラス・フォートワース空港に向かった。
空港に到着した私は、ベイラー大学経営大学院入学案内に記載の送迎バス会社に電話した。誰も出ない。何度も何度も試したが同じだった。その内近くで客引きをしていたタクシードライバーが声を掛けてきた。「どこにかけてるんだ。」「ここに記載のウェイコーの送迎バス会社だ。」「俺のタクシーに乗らないか。」(大学院からの案内書には「タクシーでは絶対来るな。100マイル程離れているので非常に高額になる。」と書いてあった。)「いくらで行ってくれる。」「100ドルぐらいでいくよ。」「じゃー、メーター関係なしで100ドルでいいか。」「いやそれはメーターどおりだ。」
結局、ダラス市街までタクシー、その後グレイハウンドバスに乗り換えてウェイコーに向かうこととなった。
ダラスの大都会を出ると、あっという間に文明圏から飛び出してしまったように人の気配の薄い、緩い起伏のだだっ広い草原となり、延々2時間走り続けた後、ちっぽけな建物がほんの少し集まっているようなところでインターステート31号線を降り、バスは停車した。バスディーポと呼ぶにはあまりにも閑散とした小さな掘っ立て小屋風の建物で下ろされ、「運転手にここはどこだ。」と聞くと、「This is downtown Waco!」と言うなり、にやっと笑って走り去ってしまった。そこで降りたのは私1人で、外にも見渡す限り人っ子一人おらず、炎天下に熱風だけが吹き過ぎていた。
私はとにかく予約のデイズ・インにたどり着かねばときょろきょろしたが、なにせタクシーはおろか、ねずみ1匹走っていない。公衆電話はあったので、まあホテルに電話して、アメリカでは当たり前のシャトル・バンに来てもらおう、と落ち着いて考えた。しかし、電話に出たフロントの担当者は気の毒そうに、「みなレンタカーか自家用車で来るので、うちにはシャトル・バンの送迎システムはない。」とのたまった。落ち着きがすっ飛んだ。バスはどちらの方向にも丸1日来ない。アドレナリンが駆け巡った。ここで1人残されたのでは、狼の餌食になるか、乾燥日本人になって、ヒューという熱風にさらされて、テキサスの埃になってしまうような妄想に襲われた。電話の向こうの担当者に猛然と噛み付いた。「シャトル・バンがないとはどういう意味だ。空港や、駅や、バスディーポや、街の有名スポットをホテルのシャトル・バンが回るのがアメリカじゃないか!馬鹿なことをいうな。すぐに迎えに来てくれ。」「気の毒だが、それはテキサス以外の常識だ。テキサスでは誰でも車を利用する。他の交通機関はない。」(そう言えばダラス空港からダラス市街地まででさえ、公共交通機関がなかった。「公共交通機関」という言葉さえ、ここでは通じないことを後になって思い知らされるのだが。)「そういわれてもバスで来た者はどうすればいいんだ。あんたのホテルに予約した客だぞ。どうやってたどり着けと言うんだ!」必死であった。下手な英語を気にしている余裕はなかった。機関銃のようにまくし立てる私にその担当者氏は、私の金切り声をさえぎって「ちょっと待て。」と言ってなにやら向こう側で相談している。「迎えに行くからそこを動くな。」「何だやっぱりホテルの車があるんじゃないか。」「いや、俺が自分の車で迎えに行く。」「ちょ、ちょっと待て。あんた個人に世話になる訳にはいかない。(何でこんなところで日本人特有の「遠慮」が出て来るのやら、我ながら混乱の極みであった。)」「行かないと、あんたそこを動けないだろ?」(そうだ。命にかかわるんだった。)「じゃあ来てくれ。頼む。どんな車だ。」「普通のブルーのワゴン車だ。そこには誰も行かないと思うが、俺の車が行くまで、誰かに声をかけられても車に乗っちゃだめだぞ。危ないからな。」「分かった。」
結局4,50分程待たされ、迎えに来てくれたのは、おとなしそうな白人の若者だった。「ここは、ウェイコー市の中心街だが、20年ほど前に竜巻にやられて、以来復旧せず、打ち捨てられている。白人の住民は郊外に移り、オフィスはハイウェイ沿いのビル、商店は郊外のモールに移ってしまって、残っているのは貧乏な黒人と、家賃の安さに目をつけた安物の店だけだ。それも住んでいるアパート、営業中の商店の上層階は、竜巻で壊れて、鉄筋がむき出しになったままだ。」
やっとの思いでホテルにたどり着き、文明の小さな離れ小島の端を掴んだ気でほっとしたものの、ここいら辺はまだまだ序の口であることに気が付いてはいなかった。
- テキサス州ウェイコー
テキサス州は、メキシコと国境を接するアメリカ合衆国の南のどん詰まりにあり、元スペインの植民地であったメキシコの一部だったが、アングロサクソン中心の白人移民の増加によりアメリカ合衆国への編入の動きが活発となるや、メキシコは軍隊を派遣してこれを鎮圧した。しかしこの動きは止まず、ついに植民者は、メキシコ軍を倒し、独立を勝ち取った。メキシコとの和解を求める必要から、アメリカへの編入は当面行わない、と約束したため、独立国「テキサス共和国」がわずか2年間だが存在した。テキサス人は、未だにこの独立国であったことを誇りにしており、アメリカの他州とは格が違うと言いたがる。
ウェイコー市は、元はテキサス州の主要産品であった綿花の集積地として栄えた商業都市であったが、産業の中心が綿花から石油に移るとともに、ダラスやヒューストンにビジネスの主役の地位を譲り渡すこととなった。市の中心にはメキシコ国境まで続くブラゾス川が流れ、インターステート35号により北はダラス、フォートワース、南は州都オースティン、テキサス独立ゆかりの地サンアントニオ、果てはメキシコ国境のシウダーファレスへとつながっている。ダムによりせき止められた人造湖のウェイコー湖のほとりにはウェイコー空港があり、ダラス・フォートワース空港、ヒューストン空港などと小形双発プロペラ機(20人乗り)で結んでいる。
- ベイラー大学
ウェイコー市は、他のテキサスの地方都市と同じく、白人と黒人の居住地が明確に分かれており、ベイラー大学の建学者が、黒人白人の融和を願って、黒人居住地のほぼ中心に大学を起こしたことから、現在大学と教員の官舎や学生用アパートが立ち並ぶ周辺地区は黒人街の湖に浮かぶ孤島のような位置関係となっている。
大学の創設は古く、1845年にテキサス共和国に設立登記された、南部でも由緒あるバプティスト(アメリカのキリスト教の一派で南部では最大の宗派)の大学で、フットボールの名門校としても知られている。建学精神とは裏腹に、学生の95%以上が白人で、ダラスやその近郊の裕福な白人の子弟が大部分を占めている。
学部としては、ダラスにキャンパスがある医学部を含む総合大学だが、規模は学部生13,000、大学院生2,600人で、マスターまでは全てそろっているが、ドクターコースがない専攻もある中規模大学である。
大学全体としても、私の通うビジネススクール(ハンカマー・スクール・オブ・ビジネス)も全米(500校~600校)で30番目くらいのところであった。
- 渡河大作戦
ホテルはブラゾス川沿いに立っており、大学はホテルの対岸にあった。到着翌日大学のオフィスに手続きに行こうとして歩き出してから、ホテルの近くには高速道路の橋が掛かっているだけで、歩道のある橋が無いのに気付いた。そばにあった修理工場のおっちゃんに「橋はどこにある?」と聞いたのだが、「ここら辺にはない。」とそっけない答えで、またもやこまった私は、ホテルに戻り、従業員に地図を見せて聞いてみた。「川の向こうの大学に行きたいんだけど、橋はどこにあるの?」「ここに描いてあるじゃないか。」「いやこれは高速道路だろ。人の歩ける橋はどこにあるの?」「え、車じゃないのか。あるにはあるけど、この1マイル(約1.6km)ほど上流になる。」といわれてがっくり。それでもしょうがないとあきらめてホテルを出たが、上流を見渡しても姿が見えない橋まで炎天下を歩いてまた下流に戻る気がしなかった。それより何より、上流が街なのか、藪なのか定かでなく、不安がまさった。
もうとるべき道は一つ。ワシントンDCでは高速道路を横切ったが、今度は縦に歩くことになる。なに、横切るのと違って、路肩を気をつけて歩けば訳は無い。
とんでもない勘違いだった。当たり前だがハイウェイ用の橋には、歩行者が安全に歩けるだけの路肩など存在しない。歩くすぐ横を時速65マイル(105キロ)以上で車がぶっ飛んでいく。ちょっとでも接触したら大怪我間違い無しだ。こうなったら少しでも早く渡り切るしかない。必死で走り出した。橋の袂から見たときはそんなに長くは無いと思ったのだが、走っても走っても向こう岸に着かない。その間にも何台もの車が猛烈な勢いで襲い掛かってくる(ように思えた)。命からがらの渡河大作戦であった。
何とか無事に渡り終え、気を落ち着けて、他の学生のようにいかにも車で来ました、というような涼しい顔を無理やり作り大学の事務所に向かった。一応の入学手続きを終え、留学生だけのオリエンテーションとなった。インターナショナルオフィス担当のリマスターと言うご婦人(教授のご夫人で、後でわかったことだが、どうもだんなさんのコネでこのボランティア同然の名誉職を手に入れたらしい。)から各種説明を受けた。そこでびっくり、大学で経営専攻でなかった者は1学期間「経営集中コース」を受講し、無事終了出来た者だけがビジネススクール本課程に進めるとのこと。さらに、TOEFLEの点数を基に入学許可を出したはずなのに、また英語能力試験を行うと言う。結果によっては学科入学前に英語集中コースを受ける必要があるとのたまうが、こちらは市役所から2年の修士取得ぎりぎりの期日しかもらっておらず、そんな寄り道をするわけにはいかない。
試験のあと、総合指導担当の教授にハンカマー・スクール・オブ・ビジネスの教授室で面会したところ、案の定インターナショナルオフィスからこの学生は英語集中コースを受けさせる必要があるとの連絡が入っていた。私の担当のドクターは、交換教授で日本滞在の経験があり、役所からの派遣留学生と聞き、「英語を勉強している暇はありますか?」と聞いてくれたので、即座に「全く有りません。」と答えると、ミセス・リマスターに電話し掛け合ってくれた。結局担当教授の権限がまさりミセス・リマスターを押し切ってもらえたが、後にこれが同女史の機嫌を損ね、たびたび嫌味をいわれる結果となった。
英語集中コースは免れたものの、経営集中コースが必要ということで、教授からは「次のセメスターでまた会おう。これからあなたはとても忙しくなります。なんと言っても経営集中コースを受けるんですから。」と言渡された。日本人にとってビジネススクールはとても忙しいと聞いていたので、その覚悟は出来ていると考えたが、大きな間違いであることを思い知らされることとなる。
オリエンテーションの後、ボランティアによる学内紹介行事に参加した。キリスト教バプティスト派系の大学のため、教会から年配のご婦人のボランティアが数人来ておられた。その内の1人に声を掛けられ、日本という国から来たこと、車が無いので歩いてきた(走ってきた)ことを話すと、腰を抜かさんばかりに驚き、「そんな危険なことをしてはだめだ。帰りはどうするのだ。」と聞くので、「帰りも歩く。」と言うと、「だめだ、だめだ。私が警官に送ってくれるように頼んであげる。」と言うので、警察のご厄介になるわけには行かないと辞退すると、大学のポリスだから、学生の便宜を図るのも仕事の内だと押し切られてしまい、パトカーでご帰還と相成った。
- 食う寝る所に住むところ
いつまでもホテルにいるわけにはいかない。まずはアパート探しだ。学部生用には寮があるが、大学院生用の寮は無く、大学の事務局で周辺の学生用アパートとそれらを経営するオフィスの地図と簡単な説明が入った冊子をもらい、条件を睨みながら現地を確認して探していく。
これが結構大変。テキサスは緯度が低く(沖縄と同じくらいかな?)年中暑いのだが、8月は夏真っ盛りで、なおかつ猛暑の年と来た。日中は軽く40度を越える中、こちとら徒歩での探索だ。この「徒歩」がテキサスでは珍しく、ある事務所ではアパートへの行き方を教えてもらった時に、「歩いていけるか?」と聞いたら愕然とされ、「車が無いのか!行くな。今教えたところに歩いていこうとするな。暑さで死んでしまう。」と必死に止められる始末であった。
暑くて、だだっ広くて(テキサス州の面積は、日本の約1.8倍。)、金持ち(?)のせいか、やけにプールのあるアパートが目に付く。高級アパートなんかではなく、単なる学生用の安アパートが、である。
その内の一軒で、こぎれいで、セキュリティーもよさそうな(テキサスはアメリカの中でも銃に「自由」な州でもあり、安全は欠かせない要素と思われた。)アパートを見つけ、オーナーの老夫婦に賃貸を申し込んだところ、手ごろな部屋も空いており、東洋の名も知れぬ途上国(ここら辺のテキサス人にとってはアジアといったら中国とインドくらいがぼーっと浮かぶ程度である。悪気はない。)から来た留学生というのが気に入ってくれて、契約寸前まで行ったのだが、アルコール厳禁の厳格なバプティストで、「ビールもだめですか。」と聞いた途端に形相が変わり、おぞましいものでも見るような目つきで追い払われてしまった。
振り出しに戻ってしまった。近くにはもう不動産屋はなく、訪ねるあてもなくなってしまった私は、取り敢えず一番近い別のアパートに行ってみることにした。いってみた所でオフィスが別になっているので、翌日またオフィスを訪ねて出直しだと思っていたところ、偶然備品の点検に来ていたオーナーの息子に出会い、空き室を見せてもらえた。悪くなかったが、迷っているとその息子(名前はラスティー)は私が部屋が小さいので迷っていると思ったらしく、「近くにもうひとかたまりアパートを持っていて、そこにはもっと広い部屋があるので見に連れて行く。」と言い出した。
車の中でラスティーは、一生懸命「外国人なのにアメリカの大学院に行くなんて大したもんだ。俺なんか経済学が苦手で、大学を中退してしまった。」とべんちゃらを言って営業に努めていた。
着いたアパートは確かに1人暮らしにはゆったりと広めで、気に入ったが、先程の部屋で懲りているので先に「お前さんとこはバプティストか。それならここじゃビールも飲めないだろうからだめだ。」と言うと、「うちはバプティストじゃない。ビールでも何でも好きなだけ飲んでくれ。」と言うので、契約をと思ったが、すぐに契約すると言うと何だか足許を見られそうだったので、「明日返事する。」ということにして、ホテルまで送ってもらった。エアコンの効いた車で延々歩いて来た道をあっという間に戻れて、天国のように思えた。
翌日は初日に迎えに来てくれたホテルマンに車で大学まで送ってもらい、「ベアグラウンズ・アパート」のオフィスで、巨大な体をしたラスティーのおっかさん相手に契約を行った。すぐに部屋に入ると言うと、「息子は引っ越し屋じゃないから、手伝えない。」とラスティーを睨む。どうやらこのラスティー気がいいのでいろいろ手伝ってくれるが、社長のおっかさんにはそれが気に入らないらしい。私が「荷物はこのバックパックだけだ。」と言うと、目を丸くして、「それなら送っていってやれ。」と許可が出た。
部屋は1LDK+ウォーキングクロゼットでベッドと簡単な箪笥、食事用テーブル、食器洗い機、電子レンジ、ソファにコーヒーテーブル、照明が付いており、セントラルエアコンディショニングになっている。隣には小さなグロサリー(食料品店)があるが、シーツなど生活用品は置いてないので、その日はベッドにトレーナーやTシャツを並べ、上着を掛けて寝ることにし、シャワーカーテンがないので、バスタブに湯をためて風呂に入った。
翌日学生ボランティアに車で電力会社・電話会社・水道公社のそれぞれのオフィスで契約していったが、これが結構大変で、細かいことを書かねばならない書類や、矢つぎばやの質問への回答など、英語のおぼつかない外国人には一仕事以上の難業であった。その後郊外の巨大なスーパーマーケットに連れて行ってもらい、テレビやシャワーカーテン、ベッドシーツ・カバーなどを揃えた。この学生を含めて、学部生は海外に対する関心は殆ど無く(テキサス州外への関心も薄いほど)、日本から来たと言っても、「中国の中に有るのか?」と聞かれる始末で、説明しても通じない。ことほどさように、街の人たちにとっても外国人は異星人のような存在で、圧倒的なマイノリティー(少数派)であることに不安を感じざるを得なかった。
- 経営集中コース
とにかく最初のセメスター(学期)を乗り切らないことには話にならない。授業は経営と経済、財政、企業金融、外国為替、統計学などアメリカの大学で経営学専攻の学生が4年間に習得すべきもの全てをたった4ヶ月で詰め込もうという猛烈な内容だった。計8科目を前期2ヶ月、後期2ヶ月で4科目づつ行うが、前期通過者のみが後期に進め、それぞれを通過するには4科目平均80点以上の成績である必要があった。まあ私は経済学専攻で経営の学科もいくつか取ったので大丈夫だろうぐらいに考えていた。一番心配した「テキサス訛り」も教授陣は標準語(そんなものがあるのは日本だけ、と後で分かったのだが。)で教えると聞いて安心していた。
授業が始まった。緊張したが教授はニューヨーク出身の北部訛りで、パキパキとした英語だし、経済学だったのですらすらと聞き取れた。安心して次の授業に臨んだら、おっとどっこい、そうは問屋が卸さなかった。統計学と言う未知の領域に加え、テキストを使わず、講義のみで、パソコン(ほとんど触ったことがなかった。)と高等数学を駆使して問題を解析してゆくのだが、まるっきりのテキサス訛りで一言も聞き取れない。1コマ120分間冷や汗だけがタラリタラリと流れるのみで、針の筵にいるような心境とはこのことかと変な感想が頭をよぎったことだけを覚えている。さらに追い討ちで、毎回「クイズ」と称する小テストを行い、その結果で成績の3~4割を決めると言った「らしい」。これは大変なことになった。1回でも80点を切ったら、次回以降で挽回しなければならない。つまり、1回70点を取ったら、次回以降90点、60点なら100点取らなければ挽回できず、総合成績が80点を割る可能性がある。そうなると他の学科で90点前後の成績を収めなくては通過できないことになる。重荷になった。毎日通学路を歩きながら、頭の中で「80点、80点、・・・・」と考え続け、取れなければ中途帰国になって(息子はアメリカに留学していると吹聴してしまっている両親ともども)大恥を掻くのだと、思い詰めていた。
英会話初心者が30過ぎてからアメリカのビジネススクールに留学してしまった無謀を思い知らされた。しかし始めてしまった以上やり抜かねば・・・。こうなれば卒業しなければ帰る職場も、家も無いと思い定めて「決死の覚悟で」乗り切るしかないと、日本オヤジの悪いところで、楽しかるべき海外遊学が、悲壮なものになってしまった。
一進一退、やさしそうな経営学でC(70点~80点)を取って真っ青になったり、苦手の会計学(授業が早口で聞き取れない)で苦闘の末予想外のA(90点以上)が取れて(それもクラスで私一人)絶体絶命の窮地を脱したりで、気が付いたら何とか前期は通過できていた。つかの間の休息のあと、クラスに戻ると顔の見えないクラスメートが何人かいる。みんなキックアウト(成績不良による退学処分)されたと聞いて、厳しさに絶句した。
後期は元々専門の理論経済学で担当教授に再会し、楽勝かと思いきや、その肝心の経済学を落としてしまい(C+:75点)、まるっきり自信のなかった統計学でB+(85点)が取れて命拾いする始末で、なんとも危なっかしいことながら、どうにかこうにか集中コースを乗り切った。
1年ほどウェイコー・テキサスとビジネススクールに缶詰になったような気分だった。息抜きを求めて、本当は禁止されている一時帰国をすることにした。ロス空港で国際便に乗り換える時、空港内に日本語のアナウンスが聞こえ、テキサスの「奥地」から開放されたような気分になり、どっと緊張が解けるのを感じた。
- アメリカ人なるもの
私の勤めていた自治体ではとある有名な市長さんの鶴の一声で、当時大企業ではやっていたビジネススクールへの社員派遣に刺激され、職員を年に2人アメリカに送り込みMBAを獲らせることにしました。しかし地方の役所生活を目指して入庁してきた職員にそう簡単に英語が堪能で国際感覚抜群の人間がいるはずもなく、たいていは西海岸か東海岸の大学院に通い、日本人学生同士や、韓国人学生たちと仲良くなり、集団で2年間を乗り切る人が多かったようです。そうなるとアメリカ人はかたまったアジア人の集団には近づいてこず、結局2年間でアメリカ人の友人が1人も出来なかったと言う留学生も少なくありませんでした。
しかし私の場合もともとビジネスよりは国際政治の方に興味があり、どうせ「役所」に戻ってすぐに役立つ学問でないなら国際政治を専攻させてくれ、それもドイツ語会話を習って、ヨーロッパバックパッキング旅行でもドイツに半月ほどいて居心地がよかった私はドイツに留学させてくれとわがままを言いました。しかし役所は「市長命令」で「アメリカのビジネススクール」は譲れない、との返事でした。そこで私は当時インターネットなどもなかったので、何百ページもあるアメリカ大学・大学院名鑑(英語名は忘れましたが)を片っ端から調べ上げ、なんと唯一ビジネススクールが政治科学デパートメントと共催で国際ビジネスと国際政治を融合させたMaster of International Managementと言う全米でも珍しい学位を与えるコースがあるのを発見しました。
それがたまたまテキサスの奥地のウェイコー市というところにあったため、私は日本人はおろか、外国人自体珍獣のように珍しい濃いアメリカ人社会の中で暮らすことになったのでした。当然群れを作ろうにも相手がなく、一人テキサスアクセントに苦しみながら、もがき続けていると不思議なものでアメリカ人は一匹狼には興味を示すようです。当時日本はバブル真っ盛り、「21世紀は日本の世紀」「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと日本経済が世界を席巻していたこともあり、ビジネススクールに入るほどのインテリアメリカ人には有名になっていた「日本的経営」も興味の対象だったのかもしれませんが。一人、また一人と私に声をかけてきて、結局8人あまりのグループが出来上がり、ビジネススクールの大学院生専用ラウンジで毎晩遅くまで勉強するようになりました。このグループはプライベートでも仲がよく、パーティーや各自のアパートに集まって食事をしたりといつもつるんでいました。
- テキサスアクセント
授業でも苦労したが、テキサスにいる限りは「テキサス訛り」(Texas Accent)から逃れられない。コールド・ビアはコー・ベー、セカンドがセキャ~ンド、ビジネスがビンネスなど、口をあまりあけずに発音するのは、日本で言えばむしろ東北のズーズー弁に似ていなくも無い(暑すぎて口を開け閉めしたくないのだろうか)。
いずれにしても聞き取りづらい。授業は友達のノートを見せてもらい、はてはテキサス人の友人の言葉を北部出身の友人に通訳してもらう始末で、誇り高いテキサス人の機嫌を損ねそうになる始末だった。
街での買い物、レストランでの食事も困ったが、たいていこちらの北部訛り(日本の中学英語は北部の発音を教えている。)に気付いた店の人が丁寧に言いなおしてくれたので、大事にはならずに済んだ。
ただ電話とドライブスルーのインターフォンには泣かされた。ピザを注文しても住所のところで「サウス・セカンド(南2丁目)」と言っているのに「ワン(1丁目)?」と聞き返され愕然としたり、ピザ屋で渋滞を作り、店の中に来い、と言われたりで散々だった。
私の拙い英語力ではたった2年の間にはテキサス訛りに「慣れる」ことは出来なかったが、留学生にもアイルランド人、タイ人、インド人、韓国人、香港人(広東語)、中国人(北京語)と色とりどりの英語を話す連中がいて、帰国してからもたいていの「英語」には驚かなくなった。
- 無公共交通機関、広大な近所「セントラルテキサス」
中国もカナダもロシア(当時はソ連)も広いのだろうが見たことが無かったので、とにかくテキサスの広さには圧倒された。日本の約2倍の面積に約4百万人の人口である。山は無く、茫漠たる草原が広がっている。よく日本ではテキサスと言うと「砂漠」と思われがちだが、それはお隣のニューメキシコやアリゾナで、テキサスはいわゆる「草っぱら」である。
私のいたウェイコー市は隣接のキリーン市、テンプル市とともに中央部のセントラルテキサスと言う地区に属しているが、その広さは「関東」、「関西」と同じようなスケールなのだが、北米地図で見ると小さな丸い点にしか見えない。隣町まで60~100マイル(100キロ~160キロ)で、その間はただ草原あるのみである。
最初の一年は車がなく、アパートと大学の往復で精一杯。かろうじてバスで100マイル離れた大都会ダラスに一泊旅行しただけだった。それもダラスについてからは徒歩で他に歩行者などいない市内を回るというテキサス人から見れば珍妙な旅となった。
映画で見るアメリカは、ニューヨークやサンフランシスコなど東京や他の日本の都会と変わらない風情だが、そんなのはごくごく一部でアメリカ人、特にテキサス人にとっては移動は車が常識で、街に歩道など歩く設備が無いところも珍しくない。ニューヨーク出身の政治学の先生は、授業で、女子学生が車が故障で休むといってきたが、他の学生に聞いたら彼女は学内の寮に住んでいると言われ、そんな馬鹿なと言ったら、まわり中のテキサス人の学生に「なぜ?」と聞き返され、愕然としたとこぼしていた。
とにかく車が無いと非常に不便な上に、車の無い生活者を想定していないので、公共交通機関がほとんど無い。アムトラックと言う鉄道は大陸横断線が州内をよこぎっているだけだし、ウェイコー市内でもバス路線が官庁街をほんの少し走っているだけで、日常生活の移動には役に立たない。
食料品は隣の食料品店で間に合わせ、衣類などは持ってきた物でしのぎ、足りないものは大学のショップで大学のロゴ入りのものを買い、「フットボールチームの選手のようだ。」とからかわれながら生活していた。そんなわけで、テレビのローカルニュースでセントラルテキサスがどうのこうのと言われても、さっぱり実感が沸かなかった。ある時などは、よほど孤立感が募ったのか、故郷の○○で歩いて私鉄の駅まで行き、出掛ける夢を見て、目が覚めて身動きできないテキサスにいることを痛感したことがあった。車の無い私には、テキサスの広大さはただただ苦痛だった。
だが、2年目に中古車(日産マキシマ3000)を買い、州内を走り回るようになって様相が一変した。何も無い草原を真っ青な空と巨大な雲を見ながら、または本当にでっかい夕陽を横目に見ながら走っていると、日本では体験できない恐ろしい広さが、徐々に快感に変わってきた。ちなみに昭和30年代生まれの私は、伯父などからよく「満州(中国東北部)」のでっかい夕陽」の話を聞かされ、太陽に大きいも小さいもないと思っていたが、テキサスの大平原に沈む夕陽は日本で見慣れた夕陽とは比べ物にならない「でっかい」夕陽だった。
大学のセメスターの合間に車で旅行をしたが、テキサス人はよく「テキサスを出るのが大変だから州内旅行しかしない。」と言うので、またほら吹きテキサン(TEXAN:テキサス人)が大法螺を、と思っていたが、まさに「セントラル」テキサスにいた私たちは、日中走り続けても、州境を越えるにはどうしても丸2日かかってしまい、法螺でないことを実感した。
日々の生活も車の取得で格段にグレードアップ?した。食事も安くておいしいメキシコレストランや、日本ではお目にかかれない分厚いテキサスステーキ屋さん、懐かしい和食屋で寿司(ただし一番近いすし屋は60マイル離れたキリーン市内)など、楽しみが増えた。
- 湾岸戦争「人間の盾」
私の留学生活は1990年夏から1992年夏までの2年間で、その出だしのところで、サダム・フセインのイラクが隣国クウェートに併合目的で侵攻し、ジョージ・W・ブッシュ大統領(現ブッシュ大統領の父)のアメリカが主導で多国籍軍が編成され、クウェートをイラクから解放するための「砂漠の嵐」作戦が行なわれた「湾岸戦争」が始まった。
アメリカを始め多国籍軍側はイラクに期限付きで撤退を求め、聞き入れなければ軍事行動を取ると通告した。フセインは虚勢を張るものの、圧倒的に兵力差のある多国籍軍の空爆を避けるため、在住の先進国国民を重要施設に閉じ込め、「人間の盾」と称して多国籍軍側を牽制した。その幽閉状態は国によって異なるが数ヶ月続き、日米などのメディアが取材した映像がニュースに映し出され、イラクに対する反感を更に煽ることとなった。
当時私は車も無く、経営集中コース脱出に喘いでおり、ウェイコーと大学のビジネススクールに閉じ込められたような錯覚に陥り、アメリカ人や日本人が最終的に解放され、西側の飛行機に乗ってイラクを離陸した瞬間、喝采が上がるのを自らのことのように感じていた。
今回のイラク戦争のニュースを見ていると、わたしもロス空港で乗り継ぎ、日本に向けて離陸したときに開放された人質のような気になっていたのを思い出す。などと言うと、妻から「そんなに嫌な留学ならなんでしたのか?」といつも突っ込まれ、答えに窮する。
しかし、4年のカリキュラムを4か月に凝縮したアメリカ人学生も恐れをなす「集中コース」をよくぞ乗り切ったと自分を褒めてやりたい思いであった。(自分で褒めないと誰も褒めてくれない。妻を筆頭に。)とにかくたまたまですが、時期の重なった「人間の盾」の被害者の皆様に自分を勝手に重ね合わせ、「共に」解放を喜んだものでした。
- 妻の「無人島」
独身で渡米した私がコロラド州のボールダー市にあるコロラド州立大学の英語学校に通っていた同じ時期に、同校には多数の日本人が在籍していたが、同時に入校した日本人のグループが自然発生し、街の繁華街に出掛けたり、在留の日系企業駐在員宅にお邪魔したりと、一緒に行動することが多かった。(英語の上達にはどうも逆効果でしたが。)
そのグループの中で妻と知り合ったのですが、妻は当時よくあった「こんな事務補助仕事なんか辞めてやるわ。貯金を使ってアメリカに語学留学して帰ってきて英語を使った私らしい仕事をするわ!」症候群の一人で、東京で勤めていた会社を辞め、単身でコロラドに来ていたのでした。ボールダーで2ヶ月日本人グループで行動している中で意気投合し、後の結婚に至ることになったのでした。
私は2ヶ月でテキサスに移動しなければならなかったため、その後レイバーデイなどの休暇を使って妻がテキサスに尋ねてくるようになり、ついに結婚を決めることになりました。妻が英語のクラスを終了するのを待って、一旦日本に帰国し両者の両親の了解を得て、テキサスに戻って結婚することにしました。
正式な結婚式は留学終了後ということにして、ウェイコー市にあるマクレナン郡の役所で結婚の手続きをすることにしました。その手続きが日本と大きく違うことを知らなかったため、郡役所に電話してトンチンカンな会話をするはめになりました。
「結婚の届けを出したい。」「オーケー、担当部署に換る。」「はい。結婚の係です。」「結婚の届けが出したい。」「届け?あー、届けね。じゃ換ります。」「はい、車両登録の係です。」「車両?結婚の届けだけど。」「結婚?おかしいな。」「はい、結婚の係ですが。」「結婚の手続きがしたい。」「あー、さっきの人。車両登録じゃなかったの?」「結婚の手続きがしたいんだけど。」「手続き?結婚証明がほしいのか。」「そうだがその前に届けがいるだろう。」「届ける必要はないが、ここで証明書がほしいのなら、ここで結婚させる権限のある者に、確認をしてもらう必要がある。権限のある牧師か治安判事が確認することになる。」
やっと分かったのは、アメリカでの結婚は(日本以外は大抵そうなのだそうだが)、権限のある者と立会人の前で結婚の宣誓をして、結婚を確認してもらい、その権限を持つ人の署名入りの結婚証明書をもらうことになるようで、日本のような「届け出用紙1枚を役所に提出」のようなお手軽なルールは無いのだそうな。
結局いつもつるんでいる友人達の立会いの下、治安判事(隣町の牧師も兼任している)に結婚宣誓式を執り行ってもらうこととなった。しかし、郡役所に申し込んでからすぐには執り行ってもらえず、役所の掲示版に72時間我々の結婚の予定を張り出し、異議を唱えるものがないことを確認してから、ようやく宣誓式とあいなった。
妻はコロラドで私と同じ英語学校に通っていたが、テキサス訛りはもちろんはじめてで、さらに私の通うベイラー大学には外国人向けの英語学校もないため、出かける場所が無い。当初車も無かったので、買い物も隣の小さなスーパーに行くぐらいで、やることがない。時々私と一緒に大学のカフェテリアに出かけるぐらいで、知り合いも無く(私の友人たちとはすぐに仲良くなったが。)妻いわく「まるで無人島に流されたみたい。」の状態だった。
私の方も大学院の授業について行くので精一杯で、あまり付き合ってもやれない。そんな中で、私が大学の留学生室をのぞいた時に知り合いになった、ベイラー大学と姉妹提携をしている九州の西南学院大学出身の英語教師で西江真由美さんとおっしゃる女性の方が話し相手をして下さった。彼女はベイラー大学の元英語担当教授のギセンズさんというご婦人のもとにホームステイしておられ、われわれ夫婦も彼女の紹介でギセンズ邸にもよんでいただき、同婦人のご友人の皆さんにも引き合わせていただいたりした。
真由美さんはご当人用の車もギセンズさんから与えられており、妻も市内の大きなスーパーや、モール、大学の施設などに連れて行っていただけた。また彼女が出ているアメリカ史の授業にもぐりで出席させてもらったりして、真由美さんのお陰で妻は何とかアメリカでの生活らしいものを送ることが出来た。
その上ギセンズさんの紹介で、ベイラー大学の言語学専攻の大学院生が行っている英語矯正プログラム(本来は軽度の言語障害の子供に正しい英語を教えるプログラム。)で大学院生に一対一で英語を教えてもらうことが出来た。妻はそれまで買い物に出ても「あれをいくらいくらちょうだい、と言って。」と、私に言わせていました。これがまた難問でスーパーの肉屋さんに行ってひき肉を買おうとしても「ひき肉」の単語が出てこない(minced meat×、ground meat が正解)。また妻いわく1ポンド(約450グラム)もいらない半分でいい、と言われて(16オンスが1ポンドなので)「8オンス下さい」と言ってしまった。肉屋さんははたと困った。いつもポンド単位で売っているので、「オンス」など聞いたことがない。騒ぎになりかけていると奥からベテランのおじさんが出てきて「ハーフポンドだ!」と説明してくれてやっと肉が買えました。最初から「ハーフポンド」と言えばよかったと思いましたが、テキサス訛りの肉屋さんたちを目の前にしてあわててしまいこのていたらくです。ただ英語プログラムで自信がついたのか、妻はその後スーパーなどで話し出そうとする私を押しのけて、買い物の交渉をしだすようになりました。
後述しますが、私が免許を取って車を買えたのも真由美さんのお陰です。彼女は半年ほどで帰国することになるのですが、妻と私のその後の「充実した?」アメリカ生活は、彼女に負うところが非常に大きいのです。あらためて感謝したい。
(その後われわれも帰国して地元に落ち着き、長崎県佐世保で英語教師に復職した真由美さんと30年近く家族のように付き合いましたが、2017年5月彼女は私たちを置いて帰らぬ人となってしまいました。子供のいないわたしたち夫婦と独身の彼女はお互い定年を迎えたら3人で国内でも海外でもよいからいいところを見つけて、お互いに飼っている猫ともども一緒に暮らそうと話していました。享年57歳。突然で若すぎる逝去でした。)
真由美さん帰国後、同じくベイラー大学の姉妹校の法政大学から研修で来ておられた職員の さんのご家族が東京からこられ、奥様と妻は同じような境遇と言うことですぐに仲良くさせていただき、あちこちご一緒に外出するようになり、私も非常に安心、助かりました。
- 日本の匂い「ロス空港」
ベイラー大学での最初の学期に履修を義務付けられた「経営集中コース」をどうにか切り抜けて年末年始に日本に一時帰国したときは、ローカル空港のウェイコー空港から25人乗りの双発プロペラ機でダラスフォートワース空港まで飛び(操縦室と客室がカーテンで区切ってあり、スチュワーデスはおらず、機長と副操縦士がカーテンを開けて、乗客に挨拶をした。)、そこからロス空港までの国内便に乗り継いだ。
ロス空港はご存知のとおり日本とアメリカ国内の一大中継基地で、国際線の施設に入ったとたんに「日本」があふれ出てきた。テキサス訛りや外国の匂いの無い環境、経営集中コースなどで過度の緊張を強いられてきた(と、本人だけは思っていましたが。)私にとって、日本の匂いにあふれたロス空港は、別天地のように感じられました。
- 自動車免許、マイカー
ところで車を買うには自動車保険(日本の任意保険と同様のもの)を買う必要があり、それにはテキサス州の運転免許が要り、それを取りに行く暇が無くて「車無し」生活をしていたのですが、テキサスでは免許試験場に車を持ち込み、筆記試験(コンピューターゲームのような4択か5択の試験)合格者がその車に試験官を乗せ、コース内外を走って採点してもらうことになっていました。私は同じく試験を受ける真由美さんの車に乗せてもらい、3人で試験を受けに行きました(真由美さんは国際免許が切れていて無免許運転)が、肝心の車の持ち主も妻も筆記で落ちてしまい、軽い練習のつもりで行った私だけ、筆記、実地ともにパスしてしまいました。後の二人は翌日筆記試験には合格したものの、実地は不合格、その翌日やっと実地も合格し、試験場の事務員さんたちから拍手喝采してもらったそうな。
試験後妻と真由美さんから、あなたは筆記はともかく、実地はずるをしたと散々言われる羽目となりました。と言うのも、私の試験官は鷹揚なテキサス男性で、縦列駐車も「前からでいい。」場外の道路で緊張してスピードを上げすぎても、「標識を見ろ、何マイルと書いてある?」と聞くだけで、私があわててスピードをおとしてもチェック無し。さらに降りる前に「日本では何年運転していた?」と聞くので、「10年」と答えると、「オーケー、合格」となってしまった。それを聞きつけた妻と友人が同じように縦列駐車で前から突っ込むと若い女性試験官から「後ろから入れるのを知らないのか!」、スピードオーバーすると、「標識が見えないの!」と減点され、その時点で不合格となってしまったそうで、あまりの対応の差にご婦人お二人はいたくお冠でありました。
アメリカでは退役軍人は優先的に公務員に採用されます。免許試験場の職員はテキサス州の公務員で、思うに私の試験を行った試験官は日本駐屯経験者ではないかと思います。生き馬の目を抜く日本の交通事情の中で10年運転している人間が、ゆったりのんびりのテキサス州の道路を運転できないはずがありません・・・考えすぎでしょうかね?
- 広大さを満喫
車の無かった1年間は、自宅の学生アパートから徒歩15分の大学の間を毎日往復し、隣の小形スーパーで買い物するくらいで、たまに徒歩30分くらいかかる中型スーパーまで遠征するのがせきのやまの生活でした。
一度妻がどうしてもCDプレーヤーが欲しいというので、タクシーを頼んで15マイルほど離れたショッピングモールに出かけました。その時は非常に離れた場所に延々でかけてきたような気がしましたが、後になって車を買って同じところにあっという間についたときには、全く拍子抜けしてしまいました。
ウェイコー周辺の広大な草原は、車のなかったころには外界と自分たちを隔て、閉じ込める茫漠たる不毛の大地に感じられたものです。その反動か、いざ車と言う自在に動ける移動手段が手に入ると、そこがどんなところなのか知りたくて、時間が空く度に街の周辺をドライブして回りました。
不毛の草原と思えた先には、広大な農園、牧場、丘陵などが延々と広がり、夕方にはさえぎるもののない大地の上に大きく大きくしずむ夕陽が見え、テキサスの広大さがもたらす雄大で素晴らしい景観に圧倒されました。
週末にも隣町や他の近隣の町(160km~数百kmの距離)に出かけて、本当はどんなところに住んでいるのかがやっと見えてきました。広大な空間に都市、農園、牧場が点在している。ところでアメリカでは東部の人口密集地などを除き、町の境(シティーリミット)の外は隣の町ではありません。シティーリミットの向こう側は「無」です。住所もありません。土地も無主地。茫漠たる草原を越えてどこかの町のシティーリミットを越すとやっと隣町です。その間に広大な牧場もあり、ロードアトラスと言うカーナビのない時代にアメリカ人の殆どがお世話になった毎年更新の道路地図帳にはこの「牧場の名前」も出ており、泊まれる町だと思ってたどり着いたら牧場だったなどと言うこともあります。ちなみに私の連れの一人のドワイト・フッドの祖父は大牧場主で、学生の家族も交えたパーティーでお会いしたおばあさまからは、「是非一度たずねてきなさい。住所はないけどアトラスの地図に載っているからすぐ分かる。」と言われ仰天したことがありました。
さすがのテキサン(テキサス人)も、よほどの用がなければ、住んでいる町とその近辺から出ることはないようでした。そこを物見高い日本人夫婦は物珍しさから毎週数百キロの距離もものかわ、車を駆って見て回ったのでした。
- 夏休み「ダラスを越えて~いざ東部へ」
車での移動が出来るようになり、州内の大都市の内、ダラス(約160キロ北方)までは行けるようになりましたが、ヒューストン(約300キロ南方)は高速道路1本で行けないこともあってなかなか届かない。日本食レストランのあるダラスまで毎週末のように出かけ、寿司を食い、日本酒を飲み、寿司職人と日本語で馬鹿話をし、たまったストレスを解消し満足して帰宅していました。行きは寿司食いたさに一生懸命に運転するのですが、帰りはアルコールが入るためいつも妻が運転するはめになり、苦情の種となっていました。
さてアメリカ(特にテキサス州)の飲酒運転にまつわる事情ですが、日本と違い飲酒運転そのものを禁止しているわけではなく、酒酔い運転が厳禁です。ですので、疑わしい運転者は止めますが、日本のようにアルコールチェックではなく、車から降ろして両手を横に上げて片足でしっかり立てたらOKとか、目をつむって大きく手を回して一発で鼻をつまめれば合格などとちょっと笑ってしまいそうな検査をするそうです。それでなければ車以外移動手段のないテキサスでレストランなど成り立たないのだと思います。ただ日本食のレストランを出た後灯りをけしたパトカーにダラスシティーリミット(市境)までつけられ、妻に法定速度以上決して出さないようにゆっくりゆっくり走らせたこともありました。
そうこうする内に苦心惨憺した1年目もどうにかこうにか切り抜けて、待望の夏休みにたどりつきました。後を楽にするために2週間の夏季集中クラスを1つ取り、私の当初からの希望であったヨーロッパバックパッキングの旅に6週間出かけ、帰国後は妻が希望のアメリカ大陸ドライブ旅行に出ることになりました。
なにしろ車でダラスから北には行ったことがない。私自身元々アメリカ留学ではなくヨーロッパが希望であったため、アメリカの地理、自然の知識はほとんどなく、「三角おにぎりを逆さにした形」ぐらいの感覚でしかなかった。つまりダラスから先は未知の世界です。1年間ウェイコーとその周辺に幽閉され苦闘してきた(と本人だけは思っている)思いが強く、大学院から一時的にしろ解放され、解き放たれたような気分でありました。
それにつけても旅行計画と調査が必要です。日本では「地球の歩き方」を始めカラー写真や地図をふんだんに使った旅行書が各種ありますが、アメリカで出版されていて殆どのアメリカ人が旅行計画に利用するのは「Let’s go America」です。文字だけの緻密な旅行書で情報がびっしり載っています。これをひたすら読んで読んで読んで想像を膨らませます。その上でロードアトラスの付属の距離・時間地図を当って何日目でどこまで行けるかを確かめ、宿泊地を決めていきます。何せ総走行距離7,000マイル(約11,000キロ)の大旅行です。楽しむことも重要ですが一筆書きで「期間内に」テキサスまで無事に帰ってくることが最重要課題です。これには相当の時間妻と作戦会議を開きました。
初日の昼時にダラスを越え、一路東部に向かって走り出しました。
進路を東に向けインターステート30号(インターステートは全米を網の目上に網羅しており、奇数が南北、偶数が東西になっています。)でアーカンソー州メンフィス、テネシー州ナッシュビルに寄りながらスモーキーマウンテン国立公園を越え、最初の泊まりは時間の関係でバージニア州ロアノ-クという田舎町になりました。全米安いモーテル(日本のモーテルとは違い健全な自動車旅行者用宿泊施設)がチェーンや独立の各種の形で存在していました。ただ私たちは初心者であまりに安いチェーンモーテルは気後れして使えず、デイズインなどの日本でも聞いたことのあるモーテルに泊まろう、と決めていました。ところがロアノ-クのデイズインはかなり宿泊代が高く、3週間留まり続ける予定だった予算を考えしょっぱなからどうしたものかとデイズインのオフィス棟の前で考えていたところ、見知らぬ男性が「デイズインはたかいだろう?俺のモーテルなら一泊2人で30ドル(当時3,600円程度)で泊まれる。」と客引きをして来ました。「怪しいモーテルではない。誘導するから見てもらってよければ泊まってくれ。」と言います。不審ぶしんついていくと、以外に外見は立派なモーテルだったので泊まることにしました。ところがいざ室内を確認すると問題はなさそうだったのですがシーツがどうも湿っぽい。でももう時間も時間で他を当っている余裕もなかったのでやむなく泊まりましたが、以後はやはり少々高くてもデイズインクラスのチェーンモーテルを選ぶことにしました。後で分かったことですが、ロードアトラスにも広告を出している「モーテル6」と言うチェーンモーテルは安いところで18ドル、都会の近くで高くても50ドル以内で泊まれること、他にも清潔で安いチェーンモーテルがあるとのことでした。
翌日はメリーランド州立大学ビジネススクールに在学中の同時期に派遣されていた同じ自治体の職員のアパート(日本で言うマンション。ちなみにマンションは「大邸宅」の意味で、アメリカでは賃貸は「アパートメントハウス」、分譲は「コンド-ミニアム」と呼んでいました。)に泊めてもらうべく、DC郊外のメリーランド州に向かいました。彼のアパートはさすがにDCのベッドタウンの中にあるだけに都会的でテキサスの田舎町のアパートのように誰でも停められる駐車場はなく、機械式の客用駐車場に誘導してもらい駐車しました。アパートの部屋も元々結婚してから渡米したため、学生用ではなく立派な家族向けの客間もあるアパートでした。奥様に日本料理をご馳走になり私はご機嫌でしたが、妻はなぜ私も結婚したのだから郊外の広いアパートに引っ越さないのかと詰問され窮しました。私は例の「80点」がトラウマになっており、試験のときに車が故障しても、事故で渋滞しても歩いてでも行ける学生用アパートにこだわったのです。妻には心配性にもほどがあると呆れられました。
さて翌日はボルチモア、フィラデルフィアに寄りながらニューヨークにもう一度行こうか迷いましたが、前年かなり観光しておりお金と(ニューヨークは全てが高い)時間の節約のため割愛することにし、ニューヨークの西の郊外を抜けて北上しインターステート95に入り、清教徒上陸の地マサチューセッツ州プリムスでメイフラワー2世号を見学し、ケープコッドを目指しました。半島の突端の町プロビンスタウンで車を降り、ホエールウォッチングの船に乗り込みました。前半のメインのボストンからも出ていますが、鯨のポイントまで時間がかかりその点半島の突端から出ているその船はすぐにポイントに到着し、さらに鯨の見える確立98%を誇っていました。宣伝にうそはなく、港を出てすぐにポイントについたが早いか、いきなり大型鯨が浮上して来ました。しばらく遊弋し、何度も潜水、浮上を繰り返しました。警戒していないのか間近に寄っても逃げません。妻は必死にシャッターを切り続け、当時のことですからテキサスに帰って現像してから分かったことですが、見事な額に飾れそうな鯨の尾びれが天高くそびえる写真が取れていました。
その夜はボストンの手前の漁師町で一泊することにし、夕食を体育館のような村の衆のいくレストランと言うか食堂で取りました。メニューに「ロブスターとステーキのセット」と言うのがあったので、「少しづつでも両方食べたい。」というロブスターフリークの妻の希望でそれを頼んだところ、特大のロブスターと300グラムぐらいのステーキがセットで出て来ました。ビールも散々飲んで勘定を頼んだところ、なななんと!二人で18ドル60セント(約2,000円)チップを入れても20ドルちょっと。いくらなんでも安すぎる。間違えだったと言われる前にさっさと帰ろうと、貧乏たらしいことを考えながらそそくさと車に向かっていると、サーブしてくれたスタッフが何か叫びながら走ってくる。「やっぱり1人18ドル60セントの間違えだったんだ。」と思った瞬間スタッフが追いつき「車のキーをお忘れですよ!」とキーを差し出した。何を慌てて出てきたんだと情けなくなりながらモーテルに向かったのでした。
翌日はボストンに入り、道路に引かれた赤い線(フリーダムトレイル)をたどってアメリカ建国の歴史や独立戦争にかかわる史跡をめぐり、翌日も見残した史跡をたどった後
インターステート90号で西に向かい、ニューヨーク州バッファローを目指しました。カナダとの国境を越えることと、その先のナイアガラの滝の観光が目的です。バッファローの国境は検問所というよりは土産物屋に検問機能が付属しているような建物で、「どこから来たのか。生まれはどこか。」と言う質問を受けアメリカ人・カナダ人は素通り。「生まれ」を日本と答えた我々は簡単にパスポートを見せて通過しました。そこからナイアガラの滝までは2~3時間。「滝から徒歩5分」と言ううたい文句のモーテルにチェックインしてすぐに滝の観光に向かいました。ナイアガラはご存知のとおりアメリカ滝とカナダ滝に分かれていますが、アメリカ人の観光客も一度カナダ側に入って有名な方のカナダ滝を観光するのが定番のようでした。我々はまずナイアガラ滝の裏側から見ることが出来る岩盤をくりぬいたエレベーターで滝の中ほどまで降り、くりぬいたのか自然なのか、まさに滝の裏側がぽっかり見えるところまで歩きました。押すな押すなの大盛況でしたが、滝のすぐ裏側でさすがにものすごい迫力でした。その後定番の「霧の乙女号」に乗り込み、カナダ滝の滝つぼ付近まで猛烈な水しぶきの中ビニールの河童1枚でしのぎながら巨大な滝を真下から眺望しました。
その後はオンタリオ湖の北岸をトロントに寄りながら首都オタワを目指しました。国会議事堂での衛兵交代式を見ましたが、突然の大雨に衛兵は逃げ惑って帰ってしまい、晴れても戻ってきませんでした。さらに西進しケベック州の州都モントリオールで州会議事堂などを観光し、その夜はモントリオール泊となりました。
翌日本当の目的地ケベックシティーに向かいました。モントリオールは大都市で州都ですが、フランス殖民の旧観を残した城郭内の旧市街を持つこの小都市ケベックシティーはケベック観光のハイライトです。フランスの開拓民団の拠点であったケベックシティーは、北米では珍しい城郭都市で、城郭内には昔日を留める旧市街地があり、旧城砦のシャトー・フロンテナックホテルが聳え立っています。宿泊は高すぎて我慢しましたが、城内見学ツアーに参加し、またセントローレンス川の対岸に連絡船で渡り、夕日に映える聳えるシャトーの雄姿を堪能しました。また夜は旧市街地内のケベック料理のレストランを訪ね、フランス本国の料理のように気取っていない本当に滋味豊かで美味な北米フランス家庭料理を楽しみました。
結局ケベックシティーは2泊し、昔日のフランス植民地の気分を満喫したあと、東にとって返し、トロント経由で全米の自動車産業の首都デトロイト(当時は日本車や日本的経営に押されっぱなしで、アメリカ人でさえアメリカ車を敬遠する雰囲気がありましたが。)を通り、全米第2(都市の機能として。人口ではロスアンジェルスが第2だと思いますが。大阪と横浜のようなものですかね?)の大都市シカゴに到着しました。夜着いたのですが、確かに遠くに見えてきた明かりが距離が迫るにつれて、未来映画の宇宙都市のような巨大な光の塊となっていく様はまさに圧巻でした。その日は到着も遅かったので郊外にモーテルを見つけ、近くのレストランで簡単な夕食を取り、シカゴ観光は翌日となりました。シカゴは住民が「ニューヨークよりシカゴのほうが大きい。」と言い張る(実際にはニューヨーク800万人、シカゴ300万人)くらい大都会の部分が凝縮しており、とてもニューヨークのようにふらふら歩いて観光できる地域は限られていました。その中でも記憶に残っているのは、有名なピザ屋で昼食したときのことでした。オーダーをしようとしてお勧めのピザの「ミディアムを2つ」と言うとスタッフが「とんでもない!」と大げさにさえぎります。じゃあと「スモール2つ」と言いなおしたところ、「とてもヘビーなので勧められない」と返して来ました。「ならばどうすればいいんだ?」と聞くと「2人でスモール1個で十分だ」と言います。何だか見くびられたようで不満でしたが、実物を見て納得。日本のデリバリーピザのミディアムくらいの大きさでしたが、ピザ生地の底がピザより分厚いソーセージの塊でした。ここまで来るとイタリアから流れ着いた薄いピザの面影は全くなく、大食漢のアメリカ人の胃袋を満たすための大ボリュームのバーベキューの上にピザの顔だけ乗せたようなもので、実際私たちはそれでも食べきれず、包んでもらい夜食に持って帰ったほどでした。またシカゴの高層ビルから見える北西に広がるミシガン湖は、対岸がかすんで見えないほど巨大な湖で、どう見ても私たちには海にしか見えませんでした。
ここから南下しセントルイスで西に折れ、カンザスシティー、オクラホマシティーなどに寄りながら南下して行き、テキサス州境を越えました。
1万1千キロの初めてのアメリカでの大遠征はようやく無事に終わろうとしていました。
- 秋のセメスター
さあバック・トゥー・ザスクールの季節です。集中コースを終え、正規の大学院生となった私は、理論経済学、国際経営学、会計学2、国際法、北東アジアの政治学などをビジネススクールと政治科学デパートメントの両方に通いながら履修することになりました。
集中コースのあまりの辛さにアメリカ人の友人に「これを乗り切れば少しは楽になるのか」と聞いたときに「楽にはならないがペースが少しゆっくりになるはずだ。耐えろ。」と言われたとおりレベルは上がりましたが地獄の集中コースに比べれば速度が少しくゆったりしたように思えました。さらに、1ヶ月に1回あった集中試験が2ヶ月に一度になり、またこのセメスター4ヶ月で平均B(80点)を維持できなくても、警告が出て、次のセメスターで挽回すればよいことが分かりました。集中コースのように2ヶ月1本勝負で80点を切ったら即「さとなら!」ではなくなっただけでも随分と緊張感が違いました。
ただ油断は禁物、専門のはずの経済学もケインズ理論などは古典の部類に片付けられ、シカゴ学派、サプライサイド経済学など当時日本では実証もされていない新参理論として扱われていたものがすでに堂々と主流理論として教科書の後半を占めており簡単に通過とはいかない様子でした。また会計学は集中コースで他のアメリカ人を抑えて一人でA(90点)を取り自信を持ちかけていたのですが、のっけから会計学の哲学的側面を交えた授業に、単純に数学の得意な日本人が高得点を取れるレベルのものではない気配が漂っていました。ただ国際経営学はテキストを開けてびっくり当時世界を席巻していた「日本的経営」の影響か「松下、ソニー、トヨタ」などの日本のビッグ企業を題材にした項目が幅を利かせていました。ただこのときすでにバブルははじけ始めており、日本の安価な半導体の大量生産の落とし穴を見越したテキサス・インスツルメントの経営者が「勝つのは俺たちだ。日本の弱点は分析済みだ必ず勝ってみせる。」と公言しテキストでも、こうやって日本に勝つ、と言う同社のシステムを公開しているほどの自信に、大いにおどろいたものです。その後同社の大量生産でない工夫とアイデアを満載した半導体は世界のコンピューター搭載機器の標準となり「インテル入ってる」で全世界の市場をほぼ独占したのは皆さんもよくご存知だと思います。
ただ当時はまだ担当教授も日本式経営の隆盛に目を奪われれており、たびたび私に質問してきたり、挙句は日本式経営について院生に書かせた論文のうち私が書いたものを自分の論文にクレジットを入れず引用したらしく、ある夜中にカリフォルニアの学会に出席していた同教授から自宅に電話があり、「自分の論文を発表することになった。あなたの論文を引用している。あなたに発表の許可をもらわないと盗作になってしまう。この電話でいいので許可をくれ。」と言ってきた。実は私も日本人経営学者の論文(めったに外国語訳されない)をかなりクレジット付きで引用していたので、その教授の論文が「日本に逆流」したら困るなあと思いつつも許可した記憶があります。
そしてあれだけやりたかった国際政治学ですが国際法の教授はやたらと出欠に厳しく、他の授業で出た課題の小論文作成などで徹夜明けでどうにも出るのがきつくて休んだときなども、連絡を入れていたにも拘らず、次の授業で「なぜ休んだ、休んでは駄目だ」としつこく言われ閉口しました。それと驚いたのが、ある授業の日教授の隣に座った私に、日本から国際政治学の大学院留学を目指す大学生のアプリケーションを見せて、こっそりと「○○大学と言うのはいい大学か?」と聞くので、「それは日本でも有名な旧帝国大学7大学の内の一つで、とても優秀な大学だ」と答えると「ふーん・・・」と唸って、合否の箇所にあっという間に「合格」と書込み自分のサインをしてぽいっと机に放り出し、何もなかったのごとく授業を続けました。このおじさん政治学デパートメントの責任者だったらしいのですが、いくら日本のことを知らないからと言って隣に座った留学生にチョイと聞いて合否を決められた方もたまったものじゃないと思うのですが、妻にそのことを話すと、「あなたの頭は日本人の中でも石のように堅い。最終判断の参考にしただけでしょ。何をおどろいているの?」と取り合ってくれませんでした。
ただ自己紹介書で西ヨーロッパを2周したことを書いたため、実際の海外を殆ど知らないアメリカ人院生を差し置いて、私に「グローバル・トロッターの賢治の意見はどうだ?」とよく聞いて来たので英語能力でかなり引け目を感じていた私もそのときだけは面目を施しました。
北東アジアの政治学はもちろんここで少し楽をして、あわよくば高得点を取って他の授業を楽にしようとして取ったのですが、アメリカ人の友人達からは「ずるい!ずるい!」の大合唱を浴びてしまいました。それでも彼らは何かあって万一学位がこの大学からもらえなくても、少しレベルを落として他の大学の大学院に行く道が残されていましたが、前述のとおりそんな悠長なことを言っていられぬ私は、少々小ずるくても学位優先で行動するのだと自分に言い訳をしていました。
幼いころから政治経済ニュースや新聞に興味がありなおかつアメリカ人が殆どやらない世界史が大の好物だった私には英語の能力がもっと高ければ、そのまま授業が出来るほどの内容でした。この時間だけは少々緊張を緩めてもいきなりばっさりやられない気がして、貴重なリラックスの時間帯でした。ただ困ったのは教授が日本留学の経験者で、専門も日本政治だったので、彼の研究の手伝いをさせられたことです。勿論対価なしではなく、代わりにアメリカ人院生に課した宿題を免除すると言うものでした。「ラッキー!」と思ったのもつかの間、課題がNHKの「60年安保闘争特集」のナレーションの英語訳で、プロの翻訳家でも相当の時間と技術・知識を要する作業でした。(例えば「核の持ち込みは日米の事前協議の対象になる。」の「事前協議」は辞書に出ていない外交用語で「プライアー・コンサルテーション」となるのを調べるのに相当な時間を要してしまうとか。)妻にも手伝ってもらい必死で取り組みましたが、締め切りにはとても間に合いそうにはありませんでした。
- ホリデイシーズン「レイバーデイ(ニューオリンズ)~サンクスギビング~ハロウィーン~クリスマス」
秋から冬にかけてはサマーホリデイのあとの仕事、学校の季節のはずですがそこはアメリカでも一番良い季節でなおかつ種々の祝日(日本的に言えば)が次々に単発でやってきて、それを楽しみに「クリスマスに向けてテンション上げて行こう、イェーイ!」のホリデーシーズンなのです。
まず9月の第1月曜日は「レイバーデイ(労働者の日)」です。アメリカでは日本でも今は当たり前の「祝日は土曜、日曜とつなげる」方式が取られていて必ず連休になりました。出かけるのが大好きなアメリカ人が小旅行でも出来るようにとの配慮と聞いています。大学院は授業の都合(教授たちの都合?)で3連休となりました。我が家でもこのレイバーデイにお隣のルイジアナ州ニューオーリンズに行って名物のオイスターバーでデキシーランドジャズを楽しむ計画を立てていました。一日でもたどり着ける距離でしたが、念のためとまだ行ったことのないテキサス南部の全米第4位の大都会ヒューストンに1泊し、2泊目をニューオーリンズ、帰りは直接ウェイコーまで戻る予定でした。
ところが前章で書いたとおり北東アジアの政治学の課題「60年安保特集」の英語訳の期限がレイバーデイ明けの週末で、それがなんとも難物のため旅行していたのでは期限に間に合いそうにありませんでした。アメリカ人は「期限」「約束」には厳格です。いくら名作をなしても提出期限に1分でも間に合わなければアウトです。そのために徹夜を繰り返し、提出期限の朝のまさに3分前に論文を教授室に滑り込みで届けたこともありました。就学期間に余裕のない私にはまさに命に代えても(ひゅ~・・・なんて日本人的表現!)守らねばならない「期限」でした。ただこれを楽しみに孤独に耐えている妻が「欧米人にとって仕事は休暇を楽しむためにやるもので、自分の休暇の権利は大主張する代わりに、人の休暇の権利も守る。教授に交渉してみて!」と、元スイス系銀行社員の理屈で私に迫ります。私は「日本人」が染み付いていて「たかだか『遊び』のために人生で一番大事な?仕事(今回は大学院の課題でしたが)の期限を延ばしてくれ」などと言うのはもっての外のことだと本気で思っていました。しかし「だめもとで行ってきて!今からキャンセルしたらお金も無駄になる。」との迫力に押されて棒を呑んだような気分と面持ちで教授を訪ね、「課題の作成に日夜努めているがタイムコンシューミングな材料で、レイバーデイの休日を費やせば何とか期限に間に合うと思います。」と言うと、何を言いに来たのか察していただいたようで、「休日まで作業するつもりか?」と聞かれたので、「旅行を予定していたが、キャンセルして何とか仕上げます。」と妻の意向とはまるっきり違うことを言ってしまいましたが、教授は叫ぶように、「旅行をキャンセルしてはいけない。休日の作業はやめるように。期限は延長するからなんとしても旅行に行くように。」と「命令」しました。そうでもしないと彼の知る「日本人」は意地でも旅行をキャンセルしかねないと思ったのでしょう。
そんな顛末で結局レイバーデイには予定通りニューオーリンズに向けて出発することになりました。初めて見るヒューストンはダラスなど比べ物にならないまさに大都会でした。ニューヨークなどと同じく人が歩いてショッピング出来る様なストリートがありましたが、地上に人が見当たりません。あまりに暑い気候から地下道が縦横に発達していて、みんな涼しい地下を移動してブランド店などを回っているのでした。私はどうしても日本食レストランのある都会に出ると寿司が食べたくなる悪い癖があり、ヒューストンでもご多聞にもれずウニとイクラの寿司に執着し妻のひんしゅくを買うことしきりでした。
ニューオーリンズでは妻が予約してあったオールドタウンまで歩いて20分ほどにあるホテルにチェックインして、一息つくためにバーで一杯やっていると、警官が来て私たちの隣に座り、バーテンダーと世間話をし始めました。やがて私たちが外国人だと気づいて話しかけて来ました。「どこから来た」「テキサスのウェイコーだ」「いやオリジナルはどこだ」「日本だ」「ニューオーリンズは外国人観光客がとても多くて、それを狙う輩も多いので気を付けろ。ここからオールドタウンだって夜は歩くのは危険だからタクシーで帰って来い。」とどこかで聞いたようなセリフをまた聞く羽目になりました。「分かった気をつけるよ。ありがとう。」と言うと、「十分楽しんでくれ」と言って出て行きました。
そうだとにかく早く楽しもうとオールドタウン目指して歩いた。危険な雰囲気などまるでなく、白人観光客で大賑わいで、オールドフレンチ風の二階家が並ぶちょっとしたヨーロッパの古い町並みの風情が感じられる町です。
まず町を流れるミシシッピ川のリバーフロントで有名な外輪船「ナッチェス号」に乗ろうとしましたが、既に出航した後で、別の遊覧船が出ると言うので時間の都合もありやむを得ずその船に乗りました。遊覧してみると、雄大な川の両側に街並みが見え、海や大河のないテキサスに暮らして故郷の海が恋しかった私には久々にほっとする船の揺れです。その内先に出航したナッチェス号が帰ってくるのに出会いました。まさに19世紀の外輪船そのもので、向こうでこちらに手を振る乗客がなんともうらやましかったのを覚えています。
船を降り、町に戻ると通りのあちこちからジャズの音楽と歌声が聞こえてくる。どれでも同じようなので適当にジャズハウスに入り、1皿5ドルの牡蠣を2人分頼み、黒人の若者に殻を剝いてもらい、ビールを買って食べて飲みながら生のデキシーランドジャズを聴いて悦に入っていました。その時突然外が騒がしくなったかと思うと、マネージャーらしき中年男性が入り口まで飛ぶように駆けつけ、なんとかんぬきを閉めてしまいました。見ると他の白人客たちは、壁際の窓から下にしゃがみ外から身を隠しているではないですか。何が何だか分からない私たちは外を見ると、何か騒ぎで騎馬警官(アメリカにはよくいます。暴動鎮圧などで人間の警官よりはるかに強力だからだそうです。)が黒人の群集を蹴散らしていました。客たちは発砲を恐れて身を隠していたのです。遅ればせながら私たちも壁際に身を潜め、騒ぎが収まるのを待ちました。
5、6分して外が静かになったのを見計らってマネージャー氏がかんぬきを開け、客も元の席に戻り、ジャズも再開され何事もなかったかの様な平常営業に戻りました。私たちも席に戻り、牡蠣のお代わりをしにカウンターに行くと、勝手口から警官が入ってきて黒人の従業員に「何も変わった事はなかったか?」と聞いたところまではよかったのですが、その後「ボーイズ」(坊やたち:黒人の蔑称としても使われる)とくっつけたので怒った従業員の一人が、警官を追いかけて外に飛び出ていきました。
そんなこんなびっくりもありましたがジャズと牡蠣を堪能して外に出たころには夕方になっていました。土産物屋を見たりしながらそぞろ歩いていると、突然どこから沸いて出たのか(失礼な言い方ですが)黒人たちが何をするでもなく大勢で散歩を始めました。その数はあっという間に膨れ上がり、「危険かも。離れよう。」と言っている暇に前後左右を取り囲まれ、身動きが取れなくなりました。ただしばらく歩いて気づいたのですが、彼らは本当に散歩をしているだけのようでした。後から聞いた話ですが、南部特有なのかもしれませんが、黒人は貧しく自分たちの街であっても金がないので昼間白人観光客のような町の楽しみ方はせず、仕事が引けてから散歩して楽しむのだそうです。
とにかく夕食をしてからホテルに帰りたかったので、めぼしを付けていたニューオーリンズ料理の店に何とかたどりつき、戸外の席でジャンバラヤ(ニューオーリンズ風ピラフ)とブラックンド(フライパンで少し焦げ目に焼いた)レッドフィッシュ(鯛の一種)をワインを傾けながら楽しみました。ところがところが何かある日は続いて起こるようで、ウェイトレスが隣のテーブルにサーブしようとして、お尻で私たちのワインを倒してしまい、真っ白な私のズボンが赤く染まってしまいました。「何をするんだ!」と言うと「ソーリー、だけどこれはアクシデントだから(自分は悪くない)。」と言い放って行ってしまいそうになったので、「あんたが起こしたアクシデントだからあんたに責任がある。マネージャーを呼んでくれ」と言うと奥に入って相談しているのかしばらく待たされ、マネージャーが出て来ました。「申し訳ない。クリーニング代を出してもいいんだがそれも気が悪いだろうから、料理・ワイン代をただにするので、それをクリーニング代に代えてくれないか。」と言い出しました。」料理もワインも結構値が張ったのでここでごねても本当に気が悪いのと食事も殆ど終わっていたので、円く治めて引き取ることにしました。
そんなこんなで色々ありましたが、とっぷりと日も暮れたのでホテルに帰ろうとしてあの警官の言葉を思い出しました。でも何だかタクシー捜すのも面倒で、たった20分ぐらい大丈夫だろうと(街中は明るかったし)歩いて帰ることにしました。しかしジャズストリートを出たとたんあたりは暗く、人通りもなく寂しい状況に少し緊張が走りました。店での騒ぎや、警官の忠告が頭をよぎりまた私は規格外の危ないことをしでかしているのではないかと思えてきて、妻の手を引き早足で急いで帰りました。何とか無事にホテルに着いたときには安堵でどっと疲れが出ました。
しかしよほどこの旅には何か因縁でもあるのか、夜寝ているとドアをドンドン叩く音で目が覚めました。外から(当然ですがアメリカのホテルの部屋の外は戸外と同じ)「警官です。部屋の外に銃が落ちています。あなたのものですか。開けて下さい」と言っています。私は当然信じられず、「私のものではない。今レセプショニスト(日本で言う「ロビー」)に電話するのでそこで待て。」と言うと、何も言わなくなりなりました。翌朝恐る恐るドアを開けてみましたが勿論銃などなく。妻と「なんだったんだろう?」と言い合いながら帰り支度をしました。
帰りは来るとき寄れなかった「プランテーションマンション」(南北戦争前まで綿花畑で奴隷を使って大もうけしていた大地主の大邸宅)に寄ることにして車を出しましたが、妻が用を足したいというので街のすぐ外の公園に停車して待ちしばらく走っていたら妻が「あっ、腕時計がない!ホテルを出るときにはあったのに。」と言い出しました。聞くと先ほどのトイレでは個室の鍵が壊れており、誰かがあけようとするのを手で押さえる始末だったそうで、なおかつ赤ん坊を連れた老女と娘と思われる女性が用もなさそうにうろうろして近づいてきたと言います。妻いわく「あの時掏り取られたんだ。」とのことですが、引き返して警察に行くにももうかなり離れすぎており、妻は「就職記念に買ってもらった大事な時計なのに。」と悲しむのを通り越して怒り出す始末で、「プランテーションマンション」に寄るどころではなく、そのまま帰路につきました。
これには後日談があり、妻が入っていた海外持ち物紛失等の保険の連絡先に電話して保障を求めましたが、「警察に届けていないのですか。保険の条件で盗難などは公務員に確認してもらうこと、となっていますので。」と言うので、苦し紛れに「私は日本の公務員だ。私が現認した。○○市の○○局○○課に問い合わせてもらえば分かる。」と言ってみました。すると「分かりました。確認取れ次第時計の代金から減価償却を差し引いた額の小切手を送ります。」との意外な返事でした。言って見るものです。
休み明けは教授との約束を守るべくまた日夜翻訳に取り組み、何とか完成することが出来ました。後に日本の役所に戻り、翻訳・通訳を発注する側になってみるとこれがかなりな高額で、私の翻訳した1時間半のドキュメンタリーだととてつもない代金になることが分かりました。意地汚い話ですが、なんだかとても損な取引をしたように思えたものでした。
また日々の苦闘が続く中、サンクスギビングには真由美さんの下宿先のもギセンズ夫人の家に招待してもらい、ギセンズさんのご友人のご婦人方と一緒に手料理(これまたびっくり。肉野菜などの材料を調えて調味料を加え、油を引いた鍋に入れて、「これで後は待つだけね。」これには真由美さんも呆れているようで、肉や野菜はそれぞれ別に味付けをし、時間も加減しながら別々に入れるのが日本のやり方だ、と言うと不思議そうに「なぜそんな面倒なことをするのか?」と言われるので諦めて言わなくなったそうです。)やお酒をご馳走になり、アメリカの老婦人は一人暮らしでもとても元気なことに驚きました。ご婦人方曰く「いつも何か予定を入れて常に忙しくしていれば寂しくない」とのことでした。日本で言う三世代同居は全く無く、独立した子供はクリスマス以外帰ってこないのが普通なのです。
ハロウィーンはどこで覚えたのか妻が上手に巨大なカボチャをくり抜き目鼻口もほり、中に蝋燭をともし「ジャックオーランタン」を完成させました。しかしこれは今は皆さんご存知の「トリック・オア・トリート」に来ていいよ、と言う合図で玄関に置くもので、私たちの学生用アパートでは子供は来ない(危ないので、親が子供を車に乗せ、安全な地区の家を回るのです。黒人街のど真ん中の大学周辺にはどこの親も来ません。少なくとも当時のアメリカ南部の人種問題の現実でした。)。ギセンズ婦人が私たちを気遣って「うちで子供たちにお菓子をやりなさい。」と言ってくれたので、夜に伺い子供たちを待っていると、黒装束に黒いとんがり帽子、口から血をたらして見えるようにメイクアップした3歳ぐらいの女の子がやってきて(ドラキュラのつもりかな)「トリック・オア・トリート」と言うのでお菓子をあげる前に、「その口紅は誰の?」と聞くと正直に「マミーの」と答えてくれました。それから続々とやってきてくれて、とてもいい実体験でした。それとハロウィーンはいわずと知れた「仮装パーティ」の日です。私たちもスーパーの仮装グッズ売り場でアラブの富豪とその妻風の仮装グッズを買い、パーティーに出かけたところ、アメリカ人の友人達に大層驚かれ「賢治はくそまじめだから(屋内では帽子を取れ、話をするときはガムをかむな、サングラスも取れ、など日本の常識を連発してきたので)まさか仮装して来るとは思わなかったよ、と言われましたがとても喜んでくれて、楽しい一晩を過ごしました。
そんなホリデイをはさみながらも私の苦闘はやはり続き、よもやの理論経済学に苦戦し、
会計学2も思うに任せず、国際経営学と、北東アジアの政治学で何とか取り返す、と言うような綱渡りでした。苦心の末のファイナル・イグザムも終了しクリスマスが近づいて来ました。私は最初の年のクリスマスは一時帰国したので、アメリカで過ごす初めてのクリスマスです。
- 冬休み「初めての西海岸~砂漠を越えて」
入学以来なれないテキサス訛りに苦しむ私を何くれなく気遣い、手伝ってもくれた北部出身のブラッド(当初テキサス訛りを北部の英語に通訳してもらった)と言う友人とは彼のフィアンセ(北部からブラッドを追いかけてきて、ベイラー大学には入れなかったので、隣町の女子大学に入った)ともども私たち夫婦と家族づきあいしてきたのですが、そのブラッドに「実家(ニューヨーク州)に帰るのだったら、クリスマスに行ってもいいか」と聞いたところ、少し考えて「12月27日以降ならかまわないよ。」と返ってきた。つまりイブの24日から26日までは「駄目だ」と言うことです。
欧米のクリスマスは宗教的意味を度外視して言えば、日本の「盆」や「正月」のようなもので、離れ離れの家族・親族が一堂に会するごく稀な時期なのです。後に帰国し自治体の国際協力交流を担当する外郭団体の庶務課長になり、市内の留学生の支援事業を担当していたとき、年末には支援対象留学生の集会で必ず「正月(年末・年始)は日本では家族・親族が集まる期間なので、皆さんのホームビジット先(保証人・里親のような家庭)のご家庭でもあなた達を受け入れてくれるところは少ないと思います。一人きりにならないよう、留学生どうしで集まるなどの予定を立てておいて下さい。」と話すことになります。
要はアメリカで留学生はクリスマス休暇中行くあてがなくなるということです。宗教心と学生思いの強い教授などは、途上国からの(彼らの意識では日本も含めて)留学生のために自宅でクリスマスパーティーを開いてくれる心優しい方もいらっしゃいました。
私たち夫婦はとにかく「休暇」なのだからまたまた旅に出ようと画策しました。今回は日本人なら大方の人達が行っているのに、私たちが行ったことのない「西海岸」を目指すことにしました。2人ともロスとかサンフランシスコなど有名な観光地への旅行をすっ飛ばして、初めてのアメリカが大陸のほぼ真ん中のコロラド州デンバー郊外のボールダー(スポーツ選手の高地トレーニングで有名:標高約1,600m)のコロラド州立大学ESL(English as second language)であり、その後私の入学したテキサス州ベイラー大学経営大学院のあるウェイコー市にほぼこもっていました。
お世話になった西江真由美さんはとうに帰国していましたが、その寄宿先のギセンズ夫人は何くれと無く私たち夫婦に気遣ってくれていました。ただやはりクリスマスは友人ブラッドと同様に「うちに来なさい」とは言ってくれませんでした。北部に散らばる娘達孫達が久々に訪ねてくる予定になっていたのです。もうそれは予測済みでしたので、「クリスマスも含めて、私たちは西海岸に行ってきます。」と言うと、「今ロスアンゼルスでは黒人が白人警察に暴行されて暴動が起きている。それがきっかけで黒人の職を奪う韓国人移民に矛先が向いてしまった。黒人が集団で韓国人街を攻撃すると聞いて、韓国人たちは土のうを積んで、その上にカービン銃をすえつけて、徹底抗戦する構えだ。あなたたちの顔と、韓国人の顔はアメリカ人(の黒人)には見分けがつかないから、ようく気をつけるように。それから西海岸までの間の町には危険なスラムがいくつもあるから、そこは避けるのよ。」と言われました。でもスラムは地図に載っていません。「どこがスラムなんですか?」と訊くと、「それは私にも分からない」との返事で、どう気を付ければよいのか考え込んでしまいました。
それと「猫はどうするの?」と訊かれたので、行きつけのベテリナリー(動物病院)に預ける。」と答えると、「かわいそうだから、うちにおいて行きなさい。私は猫を何匹も飼ったことがあるから、面倒は見られますよ。」とおっしゃる。アメリカ人の高齢者は一人暮らしには慣れているとはいえ、やはり猫でも「お連れ」にいればそれなりに癒されるのかな、と考えお言葉に甘えることにしました。しかし困ったのは猫(メリー)の方。なにせ私たちの話す日本語はほぼ理解していた(人間で言うと2歳~5歳の知能があると言われています。)メリーですが英語は無論分からず、アメリカ人の友人が家に来て我々の会話が英語になると私たちに向かって「日本語で話せ!」と言わんばかりに「ニャー、ニャー」抗議してきました。そんなメリーをアメリカ人のご夫人に預けて大丈夫か、という不安がありました。これは後に分かることですが、ギセンズ夫人とメリーの間にはあるきっかけで、私たちの留守の間になんとも言いがたい交流が生まれることになるのです。
しかし私たち夫婦には何も予見できず気楽に、西海岸に行く前に名にしおうカリブ海の島に行ってくる計画を立てました。当初は英領バージニア諸島に行こうとしましたが、西海岸分の予算も考えると不足することが分かり、メキシコのカンク-ンの沖にあるダイバーに大人気のコズメル島に行くことにしました。
ダラスフォートワース空港からメキシコ航空でコズメル空港まで飛び、空港でリゾート行きのシャトルバスに乗り込みました。途上国の離島にあるリゾートと違い、メキシコ人が普通に住んでいる島です。バスの車窓からはメイン道路から何本も伸びるわき道の奥にこう言っては何ですが、掘っ立て小屋のような家が密集していました。北米を構成する3国の内メキシコだけがGDPも一人当たりGDPも格段に低い中位の途上国で、人口を構成するスペイン系の白人の一握りが大部分の所得を占め、一般国民は誠に貧しい生活を送っていました。
リゾートについてチェックインし、ここはもうダイバー免許の無い私たちに出来ることはシュノーケリングあるのみ。海に向かって泳ぎ出しました。生活者が大勢いる島ですので浜からすぐにはサンゴ礁はなく、かなり沖まで泳いでやっと南の島の魚たちに出会うことが出来ました。何度か浜辺で休憩しながら泳ぎましたが、緯度がそんなに低くない(赤道直下ではない)コズメル島は冬の季節日没が結構早く、午後4時過ぎにはもう寒くて浜辺に寝ていられないほどでした。
見切りを付けて部屋に帰り、シャワーを浴びてリゾート着に着替え浜辺にオープンしたカフェのテーブルの一つに陣取りました。アメリカ人観光客が大勢くるリゾートでスタッフも慣れた感じですぐに飛んできて、飲み物から始まるオーダーを取りに来ました。有名なコロナビールを味わいながら見渡すと、私たちに付いてくれたウェイターもそうですが、大勢のウェイターが砂浜を駆けずり回っていました。なにしろ客が呼べば走ってやって来て、また走ってホテルに行きまたまた走って注文した品を届けにきてくれるのです。客は夕日が残る海を眺めながら天国のような気分ですが、スタッフは大変だなあと思っていたとき、すでに相当出来上がっているアメリカ人と思しきグループの内の若い女性が、メキシコ人のウェイターに絡み始め、悪態の限りをつき始めました。ウェイターはもう平身低頭、必死に謝り身も世も無いほどに困り果てていました。それでも酔っ払いの攻撃はやまず、「ひどいやつだなあ」と言ってるうちにとうとうげろげろ吐き出し、しょうがなくグループの人間がホテルまで引っ張っていき騒動はやっと終わりました。事ほど左様にアメリカ人客=金持ち、メキシコ人スタッフ=貧乏の構図が出来上がってしまっており、スタッフは客の機嫌を損ねないように必死にサーブしているのが分かりました。私たちに付いたウェイターも顔はともかく英語を話す私たちをアメリカ人だと思っているらしく、主人に対する家来のごとく瞬間的に反応し、とにかく死に物狂いで最速のサービスを提供してくれるのが何とも気の毒に思えてきました。そうは言っても私たちも休暇で来ているので、世界に名だたるメキシコ料理を目一杯堪能しました。
西海岸行きも控えているのでコズメルは2泊3日で引き上げることにして空港に向かいチェックインしようとすると、メキシコシティーからコズメル経由ダラスフォートワース行きの飛行機だと言うことで、なんとカウンターのスタッフが機内のスタッフにトランシーバーで空き席を確認し、手書きのエアチケットを渡しているのです。ラテン系を一まとめにして悪く言うのはよくないのでしょうが、ヨーロッパでもラテン系の人々のいい意味おおらかさ、裏返しでいいかげんさに何度も泣かされた私には何か悪い予感が走りました。機内に乗り込んでみると案の定渡されたチケット席にはメキシコ人の母親と子供が既に座っているではありませんか。私が「ここは私たちの席のはずだが、チケットを見せてくれ」と言っても英語が分からないようで、子供を抱きしめておびえ始めてしまいました。困り果てスチュワーデス(フライトアテンダントと言う言葉はまだ無かった)をつかまえて「私たちの席にこの人達が座っている。どうにかしてくれ。」と言うと。「この人たちはメキシコシティーから乗ってきている。立たせるわけにはいかないからちょっと待ってくれ。」「どういう意味だ?」「客の人数は合っているはずだから、みなが座れば空き席がすぐ分かる。そこに案内する」と言って忙しいのかどこかにいってしまいました。待つことしばし、ラテン系そのものの客たちは中々座らず、いつになったら座れるのか見当もつきませんでした。先ほどのスチュワーデスをやっと見つけて、「いつまで客を立たせておくつもりだ。カウンターに連絡すれば空き席は分かるはずじゃないか!」と詰問すると「私たちはいま忙しい。みなが座るのを待ってくれればいいじゃないか」とうっとうしそうに言うので、「チーフパーサーを呼べ、それがメキシコ航空のサービスか。客を立って待たせるエアラインなど聞いた事がない。いいかげんにしろ。」と怒りも混じってかなりのテンションで言い放つと、謝りもせずチーフパーサーを呼びに行き、つれてきたそのチーフパーサーがさも面倒くさそうにチェックインカウンターに連絡し、やっと空き席まで誘導してくれましたが、結局やはり何の謝罪も無く、まるで「間違いは誰にだってあるだろう。何で待てないんだ?」と言っているようで、ああやっぱりラテン系と思ってしまった次第でした。
いったんウェイコーの自宅に帰り、西海岸行きの準備を整えましたがメリーの様子が気になりギセンズ夫人宅を訪問しました。ギセンズ邸に着くとメリーが迎えに来たものと思ったのか「帰るよね、ね、ね、ね」といわんばかりに擦り寄ってきて、元々妻の猫で妻べったりなのが、私のひざに乗ってきて私にしがみつきました。ギセンズさん曰く「メリーはしばらく慣れないで姿を見せなかったけど、2日ほどで私のベッドに入ってきた(寒かったからだと思うんだけど)。それと預かった日本製のキャットフードをあっという間に食べてしまったので、アメリカ製のものを買ってきてやったら食べない。私は子育ては慣れているから『食べたくないなら食べないでいなさい』と言って放っておいたらしばらくして食べ出した。」と言うことでした。いずれにしろ引き続きメリーをお願いし引き揚げなければいけないのですが、私にしがみついたメリーがどうしても離れない。ギセンズさんが「雅子の猫だと思ってたけど、賢治にしがみついてるわね。」と驚いていました。たぶん雅子だと簡単に引き離されてしまいそうで、猫慣れしてない私に必死に取り付いたのでしょう。とにかく何とか引き離しなだめる間もなく退散いたしました。(これがこの後メリーの大不興を買うことになるのですが。)
翌日は朝からダラスに向かってI-35を北上し、ダラスでI-20に乗り換え、西の州境エルパソを目指しました。しかし昼前にI-20に乗り換えた時点で「エルパソまで500マイル(約800キロ)」の標識があり、さて今日中にテキサスを出られるか。と心配になりましたが、何せ初日のことなんとかして目標のテキサス州脱出にこぎつけたいとひたすら走り、夕方にようやくエルパソにつながるI-10に乗り換え、しゃにむに西に向かい続け、日もとっぷり暮れ真っ暗な中何度か灯りの塊が見えるのを「エルパソか!」と思うのですが、中々着かずやっとエルパソ郊外のモーテル(この旅では、ロードアトラスにも広告が必ず載っている「安くて清潔」と評判で全米を網羅する「モーテル6」を探して泊まることにしました。)にたどり着いた時には夜10時近くになっていました。疲労困憊、テキサス人が言うように「テキサスは出るのに時間がかかるから州から出たことが無い」というのはジョークではなかったのだと確認した次第でした。
翌朝、元気を取り戻しエルパソを通り抜け、州境を越しニューメキシコ州へと入っていきました。日本の方の多くはテキサス州というと「サボテンがある砂漠ですね。」といわれるのですが、それはお隣のニューメキシコ州のことで同州はまさに砂漠もあれば山もありますが、そこら中にサボテンが群生しており、都市部でも立派な邸宅の庭の植栽が巨大なサボテンを何本も植えているのが見られました。おそらく州全体が乾いた砂地で、他の植物が育たないのかとも思われます。ただニューメキシコ、アリゾナなどは東北部の「フローズンベルト(凍った地)」を嫌い資産家たちが多く移住する先で「サンベルト」(太陽の地)と呼ばれ、非常に人気の高い地域となっていたのです。
そんなニューメキシコでは妻が大変気に入っているサボテンを各種集めた「サボテン園」に立ち寄り、まさに雄大な自然の宝庫を垣間見ました。まあその後同州をつき抜け、アリゾナ州にも入っていくわけですからいやがおうにも広大な大自然を満喫することになるのですが。
ニューメキシコ州では西部劇の撮影で有名なツーソンに立ち寄り、セットで行われる西部劇のショーを見ましたが、テキサスの田舎町にいけば今でも普通に生活している「西部劇で見たような」スイングドアの酒場や、古い町並みのメインストリートだけの街を、カウボーイハットとブーツをはいた男たちが闊歩する様がリアルに見ることが出来ました。そんなことで、私たちにはツーソンの撮影所は「作り物のにせものだなあ。」とう言う感想しかありませんでした。(西海岸から奥まで入って観光した日本の方にはごめんなさい)
アリゾナ州では言わずと知れたグランドキャニオンのサウスリム(南のへり)に向かいました。ツーソンからI-25を北上しアルバカーキで1泊し、I-40に乗り換え西に向かいます。そしてグランドキャニオンの玄関口フラッグスタッフに到着。ルート180をひたすら北上してグランドキャニオンサウスエントランスに至るのですが、冬場でもありキャニオン自体が高地のため雪景色に変わります。その途中にたくさん松ぼっくりが落ちている場所があり、停まって拾ってみると直径10センチ以上もある大きな松ぼっくりでした。日本では見ない大きなものなので、妻が欲しがり3つほど拾って帰り、ニスを塗って装飾品として飾っていました。帰国後住んだ地元のアパートには全く合わなかったので、妻の父親の家に持って行き飾ってもらいました。これは今も妻の実家の飾りだなに現存します。
とにかくグランドキャニオンに着き、ブライトエンジェルズロッジにチェックインし、東西に流れるコロラド川に沿ったキャニオンのビューポイントを端から見て回りました。ハーミッツレスト、マーサポイント、ヤバパイポイント、グランドビューポイント、デザートビューポイントなどなど。まさに地球の割れ目是絶景の連続です。私たちの行ったころは危険箇所の柵もなく、かなりぎりぎりまで行って写真撮影しました。勇気のある?若者はどうやって行ったのか分からないような割れ目の先の突端の上できわどいポーズを取っていました。グランドキャニオンサウスリム内にはいくつかロッジがありますが、どこもレストランが無く、キャニオン内のレストランで食事をします。こちらはあまりお勧めできたようなところは少なく、当時は唯一ステーキレストランが中々おいしいとの評判でした。私たちも行けばよかったのでしょうが、テキサスでは毎日ステーキのような感じでしたので、せめて旅先では違うものをと考えたのが裏目に出て、何をオーダーしたかは確とは思い出しませんが、腹を満たした程度の味だったと記憶しています。
翌日はブライトエンジェルトレイルでキャニオンを下ります。キャニオンの底には一軒だけロッジがありますが、そこまで行くには何時間もかかり、登りは登山になります。私たちは途中の張り出した岩まで快適に下りて、登りの苦手な私はロバで下って登ってくる一隊に追いつかれないよう妻に励まされながら必死で登りました。(ロバの一隊はロバの落し物をたくさん落としていくので、その後を歩くのはイヤダ~と思うのです。)
グランドキャニオンを堪能した私たちは(実はまだまだ堪能しきれず、帰国後もサウスリム2回、ノースリム1回と計4回もグランドキャニオンに行ってしまいました。まさに奥の深い自然の賜物です。)ユタ州に入りました。当時はあまり日本人観光客には知られていませんでしたが、全米でも人気抜群のザイオン国立公園をまず目指しました。渓谷に挟まれた谷にあるザイオンロッジは予約が入らないので有名でした。私たちは最初から諦めて、国立公園の近くのモーテルに泊まるつもりでしたが、駄目もとで宿泊当日の夕方に国立公園の管理所(5時を過ぎて閉まっていたが)の外にあった公衆電話(当時まだ携帯電話はありませんでした)から「今日の夜2人で1室空いていないか」と訊くと、なんと「空いています。」との返事。どうも直前のキャンセルがあったらしく、(このあともそんなケースはよくありました)喜び勇んでロッジまで飛ばしました。
ただザイオンロッジに着いたのは国立公園がとてつもなく広く、その入り口から夕方走り出したので、夜7時を過ぎていました。それを見越してロッジのレストランを7時半に予約していましたが、そんなに遅く食事する宿泊客はなく、私たちがチェックインを済ませてやっと席に着いた時には他に2組ほどだけが食事中でした。そして彼らも1組ずつ食事を終え、とうとう私たち1組だけになってしまいました。スタッフは「テイク・ユアー・タイム!」と笑顔で言ってくれるのですが、私たちが振り向くと、出口付近にもう仕事を終えたスタッフたちがずらっと並んで、ニコニコとこちらを見ています。とてもゆっくりとワインを楽しんでいる気分にはなれず、かなり急ぎ気味で(でも折角の超有名ロッジレストランですから目一杯オーダーした飲み物、食べ物、レストランの雰囲気を楽しみながら)夕食を終えました。当然ですが私たちが出口にさしかかると、スタッフ全員が「エンジョイ・ユアー・バケーション!」と言って笑顔で見送ってくれました。
翌日は渓谷の川に用意してきた履きつぶした靴に履き替えてざぶざぶと入って行き、上流目指して歩き始めました。有名な「ナロウズ」という上流が極端に狭くなっている渓流で、最後は人が通り抜けられないほど狭くなるのでその名が付きました。他の観光客と「キャーキャー」言いながら上流に行き、左右に巨大な絶壁を見ながら大人の水遊びです。靴は思ったとおりかえってきたら底が抜けていました。
次に目指したのは渓谷の端に聳えるエンジェルズ・ランディングという絶壁で、その名のとおり、天使が舞い降りるように切り立った崖です。ただここを登りきって下りてくるのが観光客のメインアトラクションで、特に頂上から絶景が見えるというのでもなく、自分たちが絶景の一部になることに意味があるようです。登り始めてかなり経ち、あたかも頂上かと思われる場所に辿り着きました。観光客の多くもここで引き返していきました「がっ!」、私は見てしまいました。はるか先に刃物のように続く岩を小さく人が取り付いているのを。それを妻に言うと、「私も気付いていたけど、言って欲しくなかった。」と言います。でも本物の「エンジェルズ・ランディング」を見つけてしまった以上、それを目の前にして引き返すわけにもいきません。意を決して進んでいきましたが、途中で公園管理官に出会い、「今からエンジェルズに行くのか。もう時間だから俺は引き揚げる。十分気を付けて行け。」と言ってとっとと下山していってしまいました。なんとなく誰も監視してくれないのかと思うと不安が増してきました。それでも進んでいくとどんどん絶壁になりとうとう鎖場まで出てきました。ガイドブック「レッツゴーアメリカ」には途中500フィートの垂直な絶壁があり、落ちると引っかかるものが無いので「テイク・ケア」するようにとの記述がありましたが、まさにいま取り付いている鎖場がその絶壁でした。そう思うと足がすくみ、前に進まなくなりました。手は動くのですが、ここは下手をすると本当に一巻の終わりだと思い、足が動き出すのを待ちました。先に行った学生たちが帰ってきたらそれこそ日本で言う「抱きかえり峡谷」でお互いに相手を抱きながら前後を入れ替わる危険なわざ(私は日本でもそんな経験はしていなくて、そんなわざが使えるとも思いませんでしたが)で通り抜けるしかないのですが、足がすくんだ状態ではとてもできる訳が無く、下山者が来ないことをひたすら祈りました。
何とか時間をかけて難所を越えると、今度は馬の背中のように細い尾根が出てきました。他の観光客も立っては歩けず、どちら側にも落ちないように四つんばいで進んでいきました。突風も吹き本当に危ない尾根を抜けると最後に急な崖のぼりになりました。ここにも何箇所か鎖が張ってあり、それにつかまりながら何とか小さな公園ほどの頂上に辿り着きました。もう神経を使い果たしどんな景色だったかも記憶がありません。妻と周りを見渡すと、一組のカップルが登ってきました。何と女性の方はスカートにハイヒールです。男性はかなりしっかりした靴を履いていましたが、女性の方を気遣うでもなく、何と無茶なことをさせるもんだと、妻と日本語で言い合いましたが、勿論相手は分かるはずも無く、女性の方は「ハーイ!」と言って私たちに手を振ってきました。
登りは大変でしたが、下りはどこが危険箇所かもう分かっているので、案外するすると下りることができました。素敵なロッジとスリル満点のアトラクションに満足し、ザイオン国立公園をあとにしました。
I-15を北上しソルトレイク・シティーに向かいました。もういい時間なので郊外のモーテルにチェックインしましたが、ここはモルモン教徒の州都。アルコールはご法度かと思いましたが、私たちのときは町の本当に入り組んだ奥の突き当たりの目立たないところにポツンと酒屋がありました。現在ではソルトレークシティーで冬季五輪もあり、全米、全世界からの観光客を受け入れかなり規制も緩み、レストランやコンビにでも酒類が買えるそうです。まあとりあえず食事してビールでも飲んでほっと一息。まだ30代の若いころでしたが、さすがにザイオンのアトラクションの疲れと、旅もまだ3分の1も来ていないのに、もう4,000キロ近く走っていたので、やや疲れが出てきたのかも知れません。
翌朝元気を取り戻して、モルモン教の聖地「ソルトレイク・テンプル」に立ち寄り、タバナクルと呼ばれる2代目の教会に入りました。音響工学的に優れていることで有名なのだそうです(妻の得意分野)。ただヨーロッパの大教会のような歴史を感じさせる壮観さはなく、私にはアメリカの大都市ならどこにでもある教会とそんなに違わない感じがしました。そう言うと妻は「音響工学的に言ってめったに出会えない場所なんだからもう少し感動したら!」と言います。その足で巨大な塩湖グレート・ソルト・レイクに向かいました。流れ出す川が無く、塩分濃度は海よりも高い魚のいない湖です。「海水浴場?」もありますが塩分濃度が高いため、体が浮きすぎて、頭が沈むので泳ぎにくいといわれていました。シーズンではないのでさすがに誰も泳いではいませんでした。ここで参ったのがひどい臭気。湖の何かの化学作用なのか、まるで魚の腐ったような臭気で満ちていました。私たちは耐え切れず、「別に見るものもないし、泳げる季節でもない。もう行くか!」とサッサとI-15に乗って逆戻り(南下)してネバダ州ラスベガスを目指しました。
砂漠の不夜城ラスベガスの「ミラージュ」という人口の火山が噴火するので有名なホテルにチェックインしました。夕食前に少しだけ私たちもギャンブルを楽しもうとギャンブル場に入場しました。さてここで気付きました。私たちは二人とも映画に出てくるようなゲームのルールを全く知らないのです。そこでやむなく、誰でもできるスロットマシンに取り付きました。これが当るは当るは。二人ともコインがザクザクでワッハッハ!です。気がつくと夕食の時間はとっくに過ぎ、10時をまわっていました。「もうやめて何か食べよう。」と二人とも思うのですが、ギャンブルの恐ろしさ、離れられないのです。
結局何と夜中の1時過ぎまで粘り、さすがに空腹と疲労で退場したときには、あれだけあったコインが元々交換した額まで減っており、損はしませんでしたが一場の夢を見ただけで終わりました。ただ救われたのは不夜城ラスベガス、ちゃんとレストランは開店していてステーキとワインでとにかく初挑戦を祝い、とっとと部屋に帰って寝ました。
ここからは音に聞こえたモハベ砂漠の横断です。ルート95を砂漠沿いにひたすら南下し、I-40、I-10を横切り、I-8に辿り着くとそこは日本のプロ野球チームがキャンプを張るので有名なアリゾナ州ユマです。さすがにチームだけではなく取材陣、ファンなどもよく来るところで日本食のレストランがありました。アメリカにいながら何をしているのかと思われそうですが(妻は常に言っていました)、またまた日本食目指してレストランに直行しました。まだキャンプのシーズンではないので他の客の中で日本人と思しき人たちは居なそうでした。サーブに来てくれたウェトレスが私たちの顔と会話から「日本人か」と聞いてきたので「そうだ」と答えると、「オーナーが日本人なので、この時期日本人客が来るのは珍しいので、喜ぶだろうから呼んできていいか」というのでOKすると、すぐにオーナーがやって来て、なんでユマなんかに今来たのか、どこから来たのかなど矢継ぎ早に質問してきて、久しぶりの日本人客に本当に喜んでくれたらしく、サービスでアメリカ版生姜焼きを追加する、と言います。折角の好意と思い有難くお受けすると、日本の生姜焼きとは似て非なる分厚く巨大な豚肉と大盛りの野菜が出て来てビックリ!これだけでも食べきれるか、と思うほどのボリュームで、他にもオーダーしていた私たちはおなかを膨らませたかえるさんのようになりながら、オーナーに礼を言い退散しました。
翌日からI-8をメキシコ国境沿いに西に西にひた走り、西海岸と砂漠を分ける山脈に分け入り、前を行くトラックが跳ね飛ばした小石でフロントグラスにクラックが入るアクシデントもありましたが(アメリカ、いやテキサスの田舎町ではフロントグラスにクラック(ひび)がある車はざらで、誰も少しぐらいでは修理に出しません。)、ようやく西海岸地域に辿り着き、サンディエゴまで届きました。西海岸と言ってもこのカリフォルニア州サンディエゴを南端に、北はオレゴン州、ワシントン州(首都ワシントンDCとは無関係:知ってますよね!)と日本列島の南北をはるかに越える(カリフォルニアがちょうど日本列島と同じくらい、面積もほぼ同じ)広大な地域で、その南端のサンディエゴは冬なのにTシャツと短パンで歩ける陽気でした。
サンディエゴはメキシコ側のティファナの観光の窓口でもあり、サンディエゴ自身も名だたる大観光地で、さらに言えば有名を馳せるサンディエゴ大学の所在地ですが、壮観なのは西海岸側の太平洋軍の一大軍港で、港には日本の報道でもよく聞く空母や巡洋艦などが所狭しとずらっと停泊している様です。
当地ではシーワールドや動物園(妻の趣味)などを観光し、国境を越えメキシコに入国しました。私たちが行った頃は巡回バスが出ていて、駐車スポットのどこで下りても、乗ってもいいツアーがありました(ネットで探しましたが、今はなくなったのか見当たりません)。入国もメキシコの管理官が乗り込んでパスポートを見るだけ。アメリカへの再入国も同様で今ほど厳しくなかったと記憶しています。ティファナ市内を歩いて観光し、土産物屋さんを覗いて買い物をしたり(銀製品が安くて良いものが多くて有名)、食事を楽しんだりひとしきり堪能して夕方にバスでアメリカに戻る日帰り旅行が出来ました。
たださすがに大都会、ついウェイコーでの癖で向かいから歩いてくる(サンディエゴは日本のように歩ける街)人に「ハァーイ!」と手を上げて挨拶すると、怪訝そうによけられてしまいました。まるっきりおのぼりさんみたいだと妻に笑われてしまいました。ちょうどクリスマス・イブだったので雰囲気のよさそうなレストランを探し夕食を楽しみましたが、前述のとおりクリスマスは家で家族、親族と過ごす人が大半で、レストランも街角も人が少なく、何か取り残されたようだねと妻と言い合いながらの聖夜でした。
翌日はほんの2時間ぐらいで着く憧れのロスアンジェルスに到着。チェックインした後日本にはまだなかったディズにーランドで一日過し、翌日ドライブしながらマウント・リーのHOLLYWOODサインを見たり、ビバリーヒルズを車窓観光(ロスはやっぱりあまり歩く観光地ではないようでした)してこれも日本にはなかったユニバーサルスタジオに向かいました。「ジョーズ」や「ET」、「カリブの海賊」などのアトラクションが楽しめましたが、映画スタジオとしては古くから有名な同スタジオも、テーマパークとしてはディズニーと比べてしまうとまだ未成熟で、1日居られるほどのアトラクションもありませんでした(今は大阪にもあり、大変充実して大盛況のようですね)。懐かしさから日本人街としては有名なリトル東京も訪ねました。当時はかなりの店があり、盛況だったのを覚えています。ただ帰国後数年経って再び訪れたときは、店の数も減り、閑散とした風情で寂しい感じがしたのを覚えています。(日本食ブームの今、どうなっているのでしょうか?)
ロスアンジェルスは全米第2の超大都市で、市内を走る高速に乗ると片側6レーンもあるところもあり、テキサスの田舎ものには目の回るような物凄い数の車両をすり抜けて車線変更をしてからの方向転換などスリル満点でした。翌日妻のたっての希望でサンタモニカの海岸に行きましたが、さすがのロスアンジェルスでも真冬に海水浴客はおらず、海岸を散策して土産物屋さんを少し見て、アメリカ人の憧れでもあるカリフォルニアハイウェイ1号目指してルート101に乗り、1号に入った後は太平洋を左に見ながら北上しました。
その自然美から全米でも1、2を争う観光目的地ビッグ・サーでは海岸を離れて内陸に
入り、その森林地帯の引き込まれるような美しさと雰囲気にレストランかモーテルを探しましたが、オフシーズンのためほとんど閉店していて、滞在しての観光が出来ず妻ともども残念至極でした。
もうとっぷりと暮れてきたので、ハイウェイ1号沿いにあるモーテルで一泊し、翌日午前中にサンフランシスコに到着し、とにかく有名なゴールデンゲイトブリッジに直行しました。約2,700メートルの吊橋で、歩道があり歩けるため大勢の観光客で賑わっていました。ただ先述したようにカリフォルニアでも北に位置するサンフランシスコは、サンディエゴやロスと違い、日本の冬と同じくらいの寒さです。車に積んできた防寒着を着ていても、橋の上の風は身にしみました。午後はフィッシャーマンズワーフから出ているサンフランシスコを周遊する観光船に乗って、アルカトラス島(アル・カポネを収容していた世界一有名な元刑務所)やゴールデンゲイトブリッジの下を通過したり、サンフランシスコ港の美しい景観を楽しみました。翌日は名物ケーブルカーに乗り徒歩でフィッシャーマンズワーフを目指しました。これが満員でも乗せるので、私は妻を座らせ、その前のポールにしがみつき乗車しました。ただこれがケーブルカーの本当の醍醐味だったようで、確かに家々を見ながら坂の下に見える海と街並みを楽しめる最高の位置だったようです。妻は逆に「何も見えなかった」と不満げでした。
フィッシャーマンズワーフではピア41で茹で蟹やクラムチャウダーを食べ、ピア43まで行くと、桟橋にアシカが群がっています。冬の寒い時期で、鼻を垂らしながら日光浴でしょうか。かもめと喧嘩している珍しいアシカも居ました。再度ケーブルカーに乗り、有名な回転場所ではケーブルカーを押したり、坂の下では巨大なブレーキ(油圧ではなく人力)を引かせてもらったり(勿論本職の運転士の介添え程度ですが)して楽しい時間を過ごしました。ケーブルカーのおり場から別の通りに出て、かなり坂を上って世界最大のチャイナタウンに辿り着きました。当時はまだ本物の中国を知らなかった(帰国後、とある東京の出向先で2年間に12回、1回2週間という中国出張一点張りの仕事をすることになるのですが)ものの、やはり中華街は私の出身地にもありましたが、その国の影響を大きく受けて、アメリカのものは非常にアメリカナイズされており、日本のものは当然日本的なものにならざるを得ないのだな(当然ですが)と感じたのを記憶しています。
ここでちょっと脱線ですが、日本人と中国人でどこが大きく違うと思いますか?勿論たくさんありますが、私(だけでなく妻も)が感じたのは、日本人(及び日系人)はどこの国に行ってもひとかたまりに住んでいる(例えばカリフォルニアとかハワイとか東海岸のニューヨーク、DCなど)。でも中国人(及び華僑?の人達)は、例えばギリシャのエーゲ海の小さな島の崖の途中にもポツンと一家族(なん家族なのか?)で中華料理店を営んでいる。ヨーロッパのバックパック旅行で寄る小さな町にも、勿論アメリカの行く先行く先で小さな町にも必ず一軒、中華料理店はあります。われらがウェイコーにも少し大きめの中華料理店があり、何時間もかなたの日本料理店に行くのが億劫なときはよく利用させてもらいました。
思うに日本人の方が集団性が強く、群れたがる。無論中国人もそういう意味では群れますが、違いは「個」でも必要とあれば生きられる強さは中国人のほうがはるかに強いように思います。私がビジネススクールで知り合った元北京大学英語講師(天安門広場事件に連座し、当局に追われ、アメリカに亡命中)は、「中国は4千年国土のあらゆるところを耕し尽くし、もう植物が育たない。私たち(夫婦で亡命)なら許されれば、モハベ砂漠だって耕して農地にして住んでみせる。」と言い放っていました。
私たちの知るただ一家族の例外は、なんとベイラー大学のブックストアで突然日本語で話しかけてきたポールさんという日系三世の青年のご家族で、おそらくはテキサス州にもあった日系人収容所(第2次世界大戦中日系人は敵性国民として連行され、資産没収、僻地の収容所に閉じ込められた。)から解放された日系人の子孫ではないかと思っていますが、ご本人に質したことはありません。ポールさんが仕事の関係で日本に来られてからもお付き合いがありましたが、ご本人からは一度もそういう発言はありませんでした。
話をサンフランシスコに戻しましょう。チャイナタウンで食事をして戻ったモーテル6ですが、全米各地のモーテル6は大変廉価かつ清潔で評判の通りでしたが、当地に限っては、従業員が全て中国系の人達で(英語の通じない従業員も居ました)、それだからとは言いたくないのですが、なんとベッドメーキングがされておらず、掃除をした形跡もありませんでした。またサンフランシスコでは有名なレストランがあり(名前を記憶していません。現存するかも定かではないです。)レッツゴーアメリカで妻が見つけて、どうしてもということで行ってみました。少し待たされましたがバーでカクテルを飲みながら待つのも楽しいものです。雰囲気もよく、従業員も洗練されていて楽しいひと時を過ごした記憶があります。帰国後グランドキャニオンを含む大西部周遊ドライブ旅行を何度かしましたが、その折にサンフランシスコに寄ったついでに思い出のレストランに行ってみましたが。これまた全従業員中国系の人達で、当然のことでしょうが客も多くが中国系と思しき人々で、雰囲気が全く変わってしまい、古きよきサンフランシスコの面影はありませんでした。
後述しますが、私たちは帰国直前に親しくしていた先述の中国人夫婦とその友人達に大変な目に合わされ、大の中国嫌いになってしまいました(それが帰国後すぐに配属になった港の局で、海外の港湾との連携担当となり、友好港の中国の港の幹部を迎えて親善友好行事を担当したのを皮切りに、多くの中国関連の仕事に携わることになるのですが)。先進国の社会に一致した当然のルールを良くわきまえた、当時珍しい中国人ご夫婦と思っていただけに、裏切られたショックも大きかったのでしょう。
サンフランシスコの東には日本でも有名なヨセミテ国立公園があり、ハーフドーム、エル・キャピタンなどの岩山や、何と言ってもアメリカ人なら誰でも泊まりたいアワニーホテルがあります。しかしながら全く残念ですが、日程の関係で半日弱公園内をドライブし、アワニーホテルを間近に見ただけで離れざるを得ませんでした。
西海岸を十分楽しんだ私たちは、帰路に付くことにしました。I-80を西に西に、再びソルトレイクシティでI-15に乗り換え南下し、フィッシュレイク国立森林公園をI-70で西に通り抜け、渓谷沿いに西進し、グランドジャンクション、デンバーを経て、サライナという名もない町でI-135に乗り南下しました。カンザス州ウィチタ、オクラホマシティなどを見ながらとうとう走りなれたI-35に辿り着きました。
ダラスの手前で州境に掛かり、Welcome to Texasの看板とともに写真を撮り、一気にダラスを抜け、懐かしい(25日間、7,000マイル:約13,000キロの旅)ウェイコーに帰ってきました。私は無事帰れてほっとしましたが、妻は「またここに帰って来ちゃった。つまらないなあ」とこぼしていました。そうです私にはまた猛烈なビジネススクールの毎日と、妻には巨大なスーパーやデパートのウインドウショッピングで暇をつぶす日々が待っているのです。
ギセンズ邸にあずけたメリーを引き取りに行きました。するとメリーは出てきたものの、「何、あっお客さんねっ!」と言う風情で、私たちに顔も向けずに前を通り過ぎていきます。まるでギセンズ夫人の猫のような顔です。そして夫人から聞かされたのは、夫人とメリーのクリスマスの話でした。なんと毎年クリスマスには北部にいる娘夫婦と孫たちが大挙して押しかけてくるはずと用意していたのが、孫の一人が「どうしても友達とクリスマスを過ごしたい」言い張って、結局来なかったと言うのです。そしてクリスマスイブは、夫人とメリーだけで過ごしたと言うことで、この夜からメリーは夫人の特別な友人(猫ですけど)になったのでした。